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7


「食うか」

 崢のよこすものはアンパンだ、コンビニで買ってきたという。いい、と答えた。腹など減っていなかった。と言うより何も食べる気が起きない。

「なんだ、腹一杯か。じゃあこれ飲めよ」

 次に勧めてきたものはコーヒーだ、カップからゆらゆらと湯気が立ち昇っていた。またしても篤史の返答は、いい、である。

「飲めよ」

 崢の声が笑って、

「変なもん混じってんじゃないの」

 篤史は言った。口の中で喋ったから自分にも聞き取りにくい声となったが崢はそれを拾ったのだろう、ちらと篤史の目を見やると小さく笑って、

「心配なら飲まなくていいよ」

 そう言いながら目をそらした。ちゃぶ台の上でコーヒーはただ湯気を上げ続けた。

 窓の外に広がるものは夕焼けである。西の空全面を赤々と焦がし、そこをカラスが渡っていった。

「部活やめて何すんの」

 床に体育座りをして膝を両腕で抱えながら篤史は聞いた。退部届は結局見つからなかった。週明けに出すと崢は言ったがすでに出してしまった後なのか。

「別に何も。バイクくらいかな」

 頬のあたりを掻きながら崢は言う。篤史の隣で壁に背をもたせかけ、片足を立てた格好で床に座っているわけだがその横顔は夕焼け色に染まっていた。

「あんだけの球を投げておきながら全部捨てるわけだ」

「いいんだよ」崢の横顔が笑う。「もともと野球なんて好きじゃなかった。むしろ嫌いだった」

 知らず知らずのうちに篤史の両の手の爪が足に食い込んでいた。

「誰かに変化球を伝授することで野球を続けたいって」

「あー、ありゃ嘘だ」

 立てた片足の上に片手を乗せたまま崢は愉快げに笑う。

 桐原はな、息を吐くように嘘をつく。突如として兄の言葉が蘇る。

 どれが嘘に該当するわけか。しばし篤史は考えた。やはり変化球の伝授に関することか、それとも、野球なんて嫌いだった、この言葉か。

「野球の嫌いなピッチャーか。なんかのキャッチフレーズみたいだな」

 夕焼け空を眺めながら崢は可笑しそうに笑っている。

「おまえは好きか、野球」

 だしぬけに崢が篤史を見たから目が合って、それにより彼が窓の外ばかり見ていたことに気づいた。

「好きも何も。もうできないし」

 崢から目をそらし篤史は膝を抱え直す。あの球は復活しない。だから今日の練習はさぼった。

「そうだな」

 崢がそう言って、篤史は崢の目をちらと見る。

「肯定するんだな」

 崢は笑った。片頬だけで。うん、と言った。

「もう終わっただろ。ストライクが入らないんじゃな、ピッチャーとして終わったってことだよな」

 そう言うと崢はちゃぶ台の上のアンパンを手に取りそれを齧った。まずい、そう言いながら眉間に皺を寄せる。

 空洞になった篤史の右腕。すかすかなのである。そこに崢はいない、見る影もない。

「辛辣過ぎやしねえか」

 声が掠れた。

「事実を言ったまでだ」

 なおも崢は笑っている。

 いいんだよ。いつだったか崢はそう言った。ストライクの入らない篤史を抱きしめそう言ったのだ。泣くなよ、そう言って笑った。俺がそばにいるよ、といった言葉をそこに聞いた。


 まさに、突如として、だ、突如として崢は篤史の指と指の間をすり抜けるようになったのだ。捕まえようと何度手を伸ばしたって崢はそれをすり抜け、または篤史の手を払い、あるいは外しにかかった。


「また投げられるようになるのを見守ってくれるのかと思ってた。やめるとは思ってなかった」

「やめるよ。もう用はない」

 そう言って崢はアンパンをまずそうに齧る。


 どこへ消えていったのか。気づけばもう、風鈴の音がどこにもないのである。崢はもはやただの人だ、単に見栄えのいいだけの高校生だ。風鈴の音をどこかに置いてきてしまったのだ、その理由も分からぬままに。


「真っ赤だな」崢が言う。「燃えてんな」

 彼の視線の先には夕焼け空があって、そこを横断するかのような電線が鳥の飛び立ちにより揺れた。カラスか。鳴いていた。

 その目に映るものを信じたかった。風鈴の音を鳴らしてほしかった。気づけば篤史はその目を見つめ、

「キスしたい」

 そう言っていた。


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