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1


 桐原崢。その手は確かに篤史の手首を掴み、吐息は篤史の耳元で揺れ、その前髪は汗に濡れていた。ベッドは軋み、シーツは乱れた。周囲には魚達がいて、水の中で静かに漂いながら二人を見ていた。


 ああ、美しいもの。あれは確かにそうだった。正しい光だ、正しかったのだ。だから篤史は闇の中から手を伸ばす。その手を掴もうと。正しいものに染め直してもらう為に。


 届かないのである。途中で大きな手が篤史の視界を遮って、そのまま篤史を捕らえるのだ。そうして闇の中に連れ戻し、どろどろと濡れた沼の底へ篤史を沈めてゆく。


 俺の篤史だ。兄の舌が耳に絡む。ぬめぬめと湿った声音と共に。





 その目を直視することなどできないのだ、太陽の下に立っていること、その光の下に顔を晒していること、それがもう悪いことのように思えた。

「おまえ最近どうしたよ」

 崢の手が篤史の手首を掴む。

「うち来いよ」

 篤史は首を横に振る。目を伏せたまま。

 その目に映るわけにいかないのだ、しかしながら崢の手が篤史の頬に触れた時、思わずその目を見てしまった。

 そこには風鈴の音があって、ああ、いつだって自分はこれを欲しているのだ、そう思う。

「あんまり気に病むなよ。ストライクが入らないなんてよくあることだ」

 崢は言った。篤史の目を見つめ、ゆるく笑って。

 おまえから野球を奪う、それがあいつの望みだった。

 兄の言葉が蘇る。

 とてもそうは思えないのだ、目の前にあるこの切れ長の目を、綺麗だと思った。濁りのない、純粋な、真っ当な、そんな類のものを思った。自分とは比べ物にならないほど綺麗なのだ、自分と、兄よりは。


 ふと、その目が流れる。すっと、篤史の身のある一点へ。そうしてそこで止まるから篤史はその目線を辿る。行き着く先まで辿らなくとも分かった。首元だ。崢と常に行動を共にするからか、いつしか崢のさまが篤史に移っていて、篤史も第二ボタンまで外すようになっていたわけだ、そのせいで鎖骨のあたりが人目に触れていた。


 まさかな、と篤史は思う。そんなわけがない、と。それは鎖骨より幾分下のあたりに付いていたはずだ、シャツの下に隠れているから見えるわけがない。見透かすことができるとすればそれはエスパーか未知の生命体くらいのものだ。


 すっと、崢の手が伸びた。篤史の胸元を掴み、鎖骨の下あたりまで、まさに三つ目のボタンが弾け飛ぶほどの勢いでそれを下げて篤史の肌をあらわにした。


 もはや反射である、篤史はその手を払った。だが一秒にも満たない一瞬の間、それは崢の目に映し込まれたわけである。

 その証拠か。崢はゆったりと流すように目線を篤史の目元に戻した。それから笑った。唇の片側だけで。

「違う」

 これもまた反射であった。声と思えぬ声となった。喉が強張っていた。しかしながら確かなる否定の言葉だ、篤史はそれを全力で否定した。

「何が違うんだ」

 いつの日か兄が使ったのと同じ言葉を崢は使った。静かに、笑って。すでに見透かした後であるかのような、そんな目つきで。

「崢」

「うん、何」

 何が言えるわけなのか。崢はしばし篤史の目を眺めたのちに、言うことないんなら呼ぶなよ、そう言って笑った。





 器用にもすり抜けるのである、篤史の指と指の間を。まるで実体のないものであるかのように。そうしてだしぬけに彼は篤史を振り向くと、ゆるく笑う。


 美しいもの。あれは幻想であったか、夢幻であったのか。それとも消されたのか、まさに消しゴムでこするように、またはマジックで塗りつぶすかのように。消された記憶達だ、消された理由も分からない。


 だから篤史はその背を追う。そうしてその手首を掴む。どうした、崢は振り向いて笑い、それからもう片方の手で篤史の手を掴んで自分の手首からそれを外すのだ、篤史は何を言うこともできない。


 何が言えようか。言えるとすれば、俺は違う、何も変わらない、そんな呟きくらいである。そうすると崢は決まってこう答える、分かってるよ、と。そして笑う。


 しかしながら、である。その目が笑っていない、そんなことに篤史は気づくのである。


 確かに何かが変容した。明らかに崢の何かが変わったのだ。あの一瞬の時間を境にだ、それしか思いつくことがない。



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