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乱れる。定まらない。腕が、指が、おかしいのだ。投げる直前、それらがもはや自分のものでない感覚に襲われるのである。
キャッチャーが困惑する。どうしたんだよ、と。答えられるわけがない。自分自身が何も理解していないのだから。
ようやく監督が就任して野球部には活気が湧いたわけだが篤史の佇む場所だけ陥没しているのか。まずはストライクゾーンに投げることだな。監督はそうとだけ篤史に言った。
篤史はグラウンドから遠ざかる。気づけば足は部室へ向かっている。
部室に到着するやいなや篤史は持っていたグラブを地面に叩きつけていた。初めての経験だ、何の罪もないグラブはただ地面に転がった。
その場に座り込んで頭を抱えた。頭に爪を食いこませた。それが頭蓋骨を突き破って脳まで届くことを望んだ。
感じた。人の視線だ。兄だ、直感的にそう思った。
「どうしたよ」
笑っているのは崢である。部室の出入口に手をかけ、夕焼け色に包まれながら篤史を見ていた。
いつもの笑みである。親しみに溢れた目だ、何も変わらぬそれ。
「俺がついてるよ」
篤史のそばにしゃがみ、崢は篤史の肩に手を回す。
「あんまり気に病むな。よくあることだ。そのうち普通に投げられるようになる」
明日には治ってるかも。そう言って崢は篤史の頬に唇を当てた。
野球部員達の威勢の良いかけ声が響いている。
「監督が就任して、また疎遠になっちまった。俺はもうおまえに教えられない。けどな、俺はいつだっておまえのそばにいる」
耳の中に崢の声が入り込んでくる。
感じた。人の視線だ。兄だ、直感的にそう思った。
しかしながら出入口のところには誰もいなかった。
「大丈夫だよ」
耳元で崢が笑っている。
ボールが指から離れない。指に吸い付いているかのように。離すタイミングが分からないのだ、まるで野球を始めたばかりの小学生のように。
自分の身体に指示を出す脳に異変が起きている――それだけははっきりと理解できた。
まさか、イップスか。その思考に行きつくまで少し時間がかかった。いや、篤史自身がその思考に行きつくことを拒否していた。
イップスは精神の軟弱な者や練習不足の者がなるものであって自分には関係がないものだと信じて疑わずに今まで過ごしてきた。多少コントロールを乱してもその後立て直してこられたからそう信じていた。本当に自分には何の関係もない世界だった、ほんの少し前までは。
マウンドではクラスメートが投げている。少し前まで表舞台に出てくることはなく水面下で人知れず練習を続けていたらしい野球部員だ、今ではまるで我が物のように堂々とマウンドに立ち、よくコントロールされた球を当然のように投げている。少し前までの西山みたいだなと誰かが囁いた――少し前までの、西山。
あのマウンドという場所に、ピッチャーという自分の代名詞に、ひどく恋焦がれるのだ。あの自分を取り戻したくてたまらないのだ。欲しいのだ、あの球が。投げたいのだ、あの球を。
エグい、と表現された、あの球を。崢との合作である、あの球を。
自分の中に未知の生物が入り込んで自分を操作している。
野球少年の夢を見た。マウンドにすっと立ち、ゆったりとした動作で振りかぶる。一体いくつなのか。まるでマウンドが自分のものであるかのようだ、その腕から放たれた球はキャッチャーミットを唸らせる。
三振! 審判の声を浴び、マウンドの彼はゆっくりと帽子を被り直す。その陰でひそかに、満足そうにゆるく笑う。
あれは誰だ? 帽子の陰に隠れてその顔はよく見えない。目を凝らしてじっと見る。まぎれもなく自分だった。
またあの頃のように投げられるのではないかと、目が覚めるたびに期待した。しかし現実が待っていた。自分の腕はもう自分のものではなかった。
いいんだよ、と崢は言う。ふわりと笑って。
風鈴が鳴るのである。西日に照らされそれはまさしく夏の消えゆこうとする音だ、だから篤史はそれを捕まえようとする。
その手が逆に篤史を捕まえる。ああ、自分はいつだってこの瞬間を待ちわびているのだ、そう思う。
泣くなよ。耳元で崢が笑う。世話の焼ける奴だな、と。
鼻をすすり上げながら笑う。笑うことができたのだと篤史は少し安堵する。
崢の肩のあたりに顔をうずめる。唐突に篤史は耳元に声を聞く。
俺の篤史だ。
ふっと顔を上げる。なんか言った? 崢に聞く。いいや、崢が答える。また空耳かよ、と笑いながら。
崢は何も言わなかった、では誰か。俺の篤史だ、そう言ったのは。
低く、湿っぽく、地を這うような、まるで恨みさえも含んだような――
俺の篤史だ。
視線を感じた。
兄が見ていた。




