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空気が止まった。そのまま時間だけが過ぎた。歯よ鳴るな、身体よ震えるなと篤史は自分の身体に念じた。
「起きてんだろうが」
低く、笑いを含んだ声が篤史の耳元で揺れた。それから、ふっ、と兄は笑った。
「今日はもう終わったのか。まだだろう。手伝ってやろうか?」
「やめて」
声が震えた。全身がガタガタ震えた。兄の手が布団の中に忍び込み、篤史のジャージの下の紐をほどいてその中に入ってきた。
兄の憤怒の骨頂か。それでも兄は笑うのだ、篤史の耳元で。
「やめてじゃねえだろ、やめてくださいお兄ちゃん、だろ」
「やめてくださいお兄ちゃん」
身を捩りながら篤史は言った。涙がシーツに向かってつたっていた。
先ほど飲んだ薬は何の役にも立たなかった。篤史はシーツに嘔吐した。
「きたねえな」
呼応するように兄の手が離れてゆく。言葉と共に。
そのまま兄は去ってゆく。
眠りに身を浸し、目が覚めたらそこに日常があるのを期待した。しかし待っているのは現実だけだった。シーツがない。吐瀉物がついたので洗面所で手洗いしたあと洗濯機に投げ込んだからだ、なぜ嘔吐したのか、それは兄が――
吐くものがないのにまた吐きそうになる。出てくるのは胃液くらいのものだろう。
悪夢ばかり見続けた。線路に足がはまってそこへ電車が迫ってくる夢。ビルの屋上から自分のもとへ人間が降ってくる夢。木陰からクマがひたひたと自分のもとへ近づいてくる夢。三十分おきに目が覚めた。びっしょりと汗をかいて。ほとんど寝ていない。
「あんたちょっと顔色悪いんじゃないの」
薬を飲む前には何かを胃に入れなければならないのだ、だから朝日を浴びながら台所でバナナを立ち食いしていると母がやって来て篤史の頬に手を触れた。さっとその手を払って背を向けるも母は負けじと篤史の肩に手を置く。
「洗濯機にシーツが入ってたけどあんたのでしょ」
「おねしょでもしたんじゃねえか」
間髪入れず兄の声が飛んできた。愉快そうな笑いと共に。それは耳に絡む。じっとりと。同時に篤史の身からじわりと汗が湧き出る。
バナナの皮を三角コーナーに投げ入れ台所から去ろうとするも、
「朝飯がバナナ一本じゃ腹が減るだろう。もう一本食えよ、ほら」
皮をむいたバナナを兄が篤史の口元に押しつけてきた。ぐっと胃が突き上がってきて篤史は足早に台所から去る。
「相変わらず不愛想ね」
母は何も気づかない。




