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22

 心臓が鳴る。寺の鐘の音のようにそれはどしり、どしりと全身に響きわたる。汗が額から頬を伝い、顎を伝って滑り落ちて、地面にぽたんと零れ落ちる。


 きっと試されているのだろう。マウンドでそう思った。

 崢の手がサインをよこす。篤史は頷く。

 崢から渡されたエースナンバー。それがすべてを物語るわけだ。俺はおまえを信頼している。おまえは俺を信頼するか?

 キャッチャーミットが篤史を見ている。がばりと口を開けて。


 自分は崢を裏切ったわけだ。崢の知らぬ間に崢の知らぬ球をこの右腕に注ぎ込んでしまった。だからその懺悔か、いややはり崢への忠誠を形にしなければならない。


 篤史は息を吐く。忠誠と信頼の証として相手チームのベンチの目を盗み見ることもしなかったし、何より今から崢の言う通りに投げる準備に入った。

 俺はおまえについていく。誰が何と言おうと。

 束の間、目を閉じる。雑念を振り払う。右腕の中にいる、確かなる、崢、それを生み出すことのみに集中する。

 目を開ける。同時に振りかぶる。

 目が合った気がした。バックネット裏にいる兄と――。

 強烈な違和感が腕と指先に襲いかかってきた。まさか――思った頃には球はとんでもない方向へ飛んでゆき、キャッチャーが大きくジャンプしても捕れなかった。

 たった一球である。それだけで息が上がった。バックネット裏、そして味方のベンチ、その二方向から突き刺さる二人の人間の視線が篤史の息を荒げた。

 迷いが生じたか。

 誰の声ともつかぬ声がする。

 首筋に汗が何本にもなってつたっていく。今の声は崢のものだったか? しかしながら崢はベンチにて口を結んだまま、淡々と次のサインをよこしている。

 息を吐き出す。唇が震えている。


 自分はこのチームの選手である。コーチは、崢である。だから崢に教え込まれてきた通りに投げる。崢の指示する球種を投げる。兄の教えとは違う肘の引き方、親指のかけ具合で、兄が封印を命じた変化球を、だ。


 バックネット裏で兄が見ている。ただ、黙って。

 変化球は封印だと言ったはずだ。

 口を結んだまま兄はそう言っている。

 観客席はいくらでも空いているのだ、それでも兄はバックネット裏を選んだ。まさしくマウンドと対面する形だ。だからこそ、そこを選んだのだ。

 あいつはおまえを潰そうとしている。そう言っただろう。

 兄の目がそう言っている。

 ちらと見やる先に当たり前のように崢は立っているわけだが、その目に薄く笑いが浮かんだような気がした。

 俺と先生、どっちを選ぶ?

 あの日に言われたのと同じ言葉が耳元をかすめていく。


 とにもかくにも、まずはストライクだ、ストライクを投げるのだ。このままではボール球が蓄積して先日の試合の二の舞いとなる。そうだ、ストライクだ、崢の言う通りに投げてそれでストライクを取るのだ、もしくは打たせて取る。

 桐原がおまえに教える投げ方な、いつか肘を痛めるぞ。

 兄がそう言っている。口を閉じたまま。

 微妙に感覚がずれるのだ。そのずれが球に伝わり、キャッチャーの前で落ち、またはすっぽ抜ける。

 故障していいのなら、そのまま投げ続けなさい。

 目の前で兄はそう言っている。


 ストライクが入らない。これはもはや自分の腕ではない。何者かに自分の腕と指を乗っ取られている、遠隔操作されている、書き換えられている――そうとしか思えなかった。


 まずい。このままではまずい。幾人ものバッターがランナーへと変わってゆく。全身から大量の汗が溢れ出ているのに指だけは震えていた。


 指がひっかかってんだよ。突如、耳元で兄の声がした。

 バックネット裏の兄を見やる。兄は口を結んでいる。

 あの日の魔法を思い出す。そうだ、兄に教わった通りに投げればストライクが入るのだ。必ず、入る。この窮地を兄のフォームが救ってくれる。

 篤史は自分の親指を見つめる。こいつをボールから少しばかり離す。兄に教わった通りに肘を引く。

 ワン、ツー、スリー。球が走った。

 ストライク。魔法である。しかしベンチには薄く笑った崢の目があった。

 俺と先生、どっちを選ぶ?


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