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18


「篤史」

 呼ばれる。全身が硬直する。同時に全身から汗が噴き出す。

 靴紐を結んでいた。まるで金縛りだ、兄を振り向くのに幾分時間を要した。

「今日は家で練習だ。キャプテンにはもう連絡した」

 兄の声が降りてくる。


 なぜキャプテンの連絡先を知っているのか。そうだ、スマートフォンを没収されたままだった、だから兄が篤史になりすましてキャプテンにメッセージを送ったわけだ。今日は日曜、自身の率いる中学の野球部の練習は自主練にしたのだろう、今日は家で練習だと兄は言う。家で練習、つまるところこれから兄による投球指導が始まるわけだ。心拍数を落ち着かせる為に吐いた息が震えた。


 二人の間を山なりの球が行き交う。肩慣らしだ。幼い頃から継続してきた、いつもの、いつも通りのキャッチボールである。肩ができた頃、

「投げてみろ」

 兄がネットに向かって顎をしゃくった。

 今から投球フォームに入るのだ。どくん、と心臓が揺れた。同時に指が小刻みに震え始めた。

 幾度も幾度もボールを握り直す。定まらない。それはころころと、落ち着く場所を覚えない。

 兄の視線が撫でる箇所、身体じゅう、そこら一帯がすり減ってゆく感触を覚えた。それを意識の外に追いやる為に大きく息をついた。目を閉じた。集中力をかき集めた。幼い頃からしてきたように。

 あの感覚に襲われた。まずい、と思う間もなく球は地面にバウンドした。

 ネットの中におさまった球を兄が拾いに行く。拾ったそれを手でこねて、兄は篤史に投げてよこした。

 言葉はなかった。ゆったりと兄は元の場所に戻った。

 その次も、またその次も、何球も同じ結果となった。何度も手の甲で額や首筋の汗をぬぐい、手のひらに滲む汗を服に押しつけて拭いた。腕を回した。足で地面を慣らした。結果は同じだった。沼にはまっていた。


「分かるか、原因が」

 声がかかる。まさに電気に触れたようだ、篤史の身がびくりと震えた。

 その目を窺った。何の感情もない声だったからすなわち憤怒と思われた。その目にも何の色もなかった。

「自分で投げてて分からないのか、原因が」

 憤怒である。それしかない。ずきずきと痛む頭は何の言葉も生み出さない。

「おまえのコーチは教えてくれなかったか」

 兄の唇が片側だけ上がった。

「そりゃあそうだろうな。何がコーチだ」

 言うなり兄は篤史の手首を掴んだ。ボールを握った側の手だ、そこからボールが零れ落ちた。

「指がひっかかってんだよ」

 兄は言った。

 カタカタと篤史の指が震えている。それを一瞥したのちに兄はふっと笑うと地に落ちたボールを拾い、篤史の手の中に押し込んだ。握れと言う。

「こいつがカチコチになってんだ、親指を少し離してみろ。こうだ。そして肘はこう、そうじゃない、こうだ」

 兄の手が篤史の指に、肘に、二の腕に、肩に、胸に、腹に、脚に触れてゆく。

「身体が前を向くのが早い。こうだ、この動きだ。この動きを徹底しろ。身体に叩き込むんだ」

 ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。兄の言葉と共に息がかかる。煙草の匂い。

 ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。念仏と化したそれが篤史の身に刻み込まれてゆく。


 戻ってきたな。不意にそんな声がした。耳元で聞こえた。しかしながら声の主は兄ではなかったようだ、兄は実に淡々と篤史の身の動きをチェックするのみだ。では誰だったわけか、戻ってきたな、そう言ったのは。


 俺の篤史だ。そう聞こえた。その瞬間、篤史の手から球が走った。

 ネットのど真ん中で球が一瞬唸り、そしてぽとりと地に落ちる。

「戻ってきたな」

 今度は兄の声がした。誰が囁いたのか分からない、耳元にかすめたそれと同じ言葉を確かに兄は口にした。

「おまえは直球だけで周りを黙らせてきた」

 兄の口元が静かに笑っている。

「忘れていただろう」

 兄は言った。

 俺の篤史だ。そう言ったのは誰だったか。戻ってきたな、その声と同じものに思えた。兄がネットの中からボールを拾い上げ、篤史の右手の中に戻した時、そこに妙な熱さを覚えた。

 ただのボールに過ぎない。それは手のひらの中でただ、ころころと丸い。

「変化球は封印だ」

 兄は言った。その目が篤史の目を見据えていた。



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