12
「俺を疑ったか」
崢は言う。ベッドにあぐらをかいた格好だ、暗闇にのまれながらもその目は篤史の目をしっかりと見据えていた。
「俺がそんなことをすると?」
目は闇に慣れている。しかしその顔が霞んで見えるのはやはり目が濡れているせいか。
濡れているどころの話ではない、涙が頬にぽろぽろと零れ落ちていた。
「自分で拭えよ。世話の焼ける」
そう言ってくっくっと喉のあたりで笑いながらも崢は指を篤史の頬へ伸ばしてそれを掬った。だいたいな、と言う。
「俺に何の得がある」
「ごめんなさい」
篤史はベッドの上で正座をしていた。両方の膝こぞうをそれぞれの手で掴んでいた。
崢はしばし篤史の顔を眺めていた。観察の目つきというやつか。やがてその目がふっと緩み、笑って、
「いいよ」
崢は言った。
やはり鳴るのだ、風鈴が。窓の外は雨だ、さわさわと鳴っているというのに風鈴の音は確かに聞こえた。耳にそよぐその音があまりにも心地よいから篤史は束の間、目を閉じた。やがて開ければ当たり前のように崢がいて、篤史を眺めて笑っていた。
「初めてだろ、めった打ち。マウンドが怖くなったな」
幼子や小動物でも眺める時のような目である。不意に思った、崢には弟や妹がいたりするのだろうかと。いるよ、と言うかもしれない。ここにさ、と。水槽の中におさまった彼らを親指などで指しながら。
「大丈夫だ。俺がついてるからな」
その声音が篤史の目から涙を引きずり出すわけか。きりのない涙だ。
いい加減に着ようかと崢が言い、そのへんに放っていたTシャツを拾い上げる。現役を退いたあとも鍛えているのか、筋肉のがっしりとついた崢の肉体が服の下に隠れた。
「崢が野球をやめたのは自分との約束を果たす為だって、あいつ言ってた」
崢と同じようにTシャツを身につけながら篤史は言う。崢の目がちらと篤史の目を見やった。
「十六になったら免許取ってバイク買って、あいつを後ろに乗っけて海岸線をぶっ飛ばすんだろ」
自分自身にも聞き取りにくい声だった。それでも崢はそれを確かに拾い上げたのだ、ふっと笑って、
「悪かったな」
と言った。
「あいつおまえに喧嘩売ったんだろ。本人から電話で聞いた」
あいつの言うことは話半分に聞いておけばいい。崢はそう言いながら首筋のあたりを掻く。
「しかしよく降るな」
窓の外に目をやり崢は言った。その横顔を篤史はじっと見つめるのみであった。
なんであいつってさ、好きでもない奴とやってんのかなと思ってさ。
えなの言葉が蘇る。知らぬ間に篤史はベッドの上に体育座りをして両膝を両腕で抱え込んでいた。
窓を細かな雨が滑り落ちてゆく。
「なんで」
篤史は聞いた。両膝に顔をうずめて。う? とも、あ? ともつかぬ崢の声が来た。言葉として成立させるのに時間を要した。それでも成立しなかった。
「できるって言ったのに。なんで今日は」
膝のあたりに爪を食い込ませてゆく。
「おまえが泣くからだろうが」
しばしの沈黙ののちに崢の笑いがかかってきた。くっくっと、喉で笑う、いつもの崢の笑い方。
「大丈夫だから。もう泣かないから。次はもっと、もっとちゃんとうまくやるから」
顔が膝の中に埋まっているから篤史の声はこもる。崢のもとへ届いたのかどうか分からない。
「崢は慣れてる様子だけど」
なおも呟く。前から聞いてみたかったことである。
「今まで誰かと」
篤史のそれを遮るようにして、
「もう帰れよ」
崢は篤史の腕を掴んでそう言った。篤史は顔を膝にうずめたままその手を払う。
「帰らない」
「兄ちゃんに叱られるよ」笑いを含んだ声が来た。「殴られるかも」
「いいよ、殴られても」
「腕を折られるかもな」
「いいよ」
「折れていいわけか」
「うん」
「ほんとにか」
「うん」
窓の外から救急車のサイレンが聞こえてくる。すぐに遠のいていった。さわさわと雨の音が続いた。
「折れたら野球ができなくなっちまうよ」
崢の声がこもって聞こえた。その手が篤史の頭に置かれた。
頭を撫でる崢の手があまりにも心地いいから篤史の脳はふわふわと泳ぎ出す。暗闇の中でひそかに漂う魚たちのように。
眠れ眠れ。崢の優しい声音が聞こえてくる。




