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数時間ほど前まで時を共にしていたというのに、もう何年も会っていないような気がした。
篤史の目の前で立ち止まった崢が黒い傘の下、篤史の目を真っすぐに見ながらゆったりと笑っている。
「ひでえ奴だろ」
崢は言った。ベンチ前で篤史によこした冷えきった目、それはもうここにはなかった。
「おまえを試したんだ。俺をどれだけ待つんだろうってな」
そこに鳴るのは風鈴の音だった。雨が降っているのに、傘に落ちてぱたぱたと音を立てているというのに、風鈴の音、それははっきりと篤史の耳に届いた。
「十時半だ」
自分の腕時計に目をやり崢は言う。
「九時過ぎからここにいた」
篤史が言うと崢は顔を上げ篤史の目を真っすぐに見て、
「知ってるよ」
そう言った。その目は確かに、穏やかに笑っていた。
なぜ知っているのか。どこかで見ていたのか。そういったことを問うも崢は答えなかった。ただすっと手を伸ばして篤史の頬に触れ、言った。
「いい子だ」
そこには確かに崢の体温があり、その目には風鈴の音があった。
部屋の中に入ると崢は何も言わず篤史の濡れた髪をタオルで拭き始めた。腕も拭いた。黙々と。床にしゃがみこんで足も拭いた。ほら、足上げて、そう言って篤史の足を上げさせ足の裏も拭いた。それから彼はしゃがんだ格好のまま篤史の目を見上げて唐突に、最初から分かっていたかのように、
「香水つけたか」
と言った。
唐突だった。何者かに眼球が押し上げられてひどく傷んだ。
「なんで泣いてんだ」
崢の声が笑う。
「泣いてない」
篤史は答える。怒ったように。
熱いものが眼球を押し上げ続ける。唇の震えが止まらない。崢はふと立ち上がると篤史の頬を流れる涙を指ですくって舌で受け、しょっぱいな、と笑った。
篤史は両手のひらで顔を覆う。その手首を崢が掴んだ。待ちわびていた手である。




