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細かい雨が傘を叩く。そろそろか。透明の傘の中で篤史は腕時計に目をやる。
一旦家に帰ったのちに再びここへ来たわけだ。二十分前には着いていた。九時半頃に帰るとのことであったし部屋に明かりが灯っていないのもあって篤史はアパートから少し離れたところ、電柱のそばで崢が帰宅するのを待っていた。
Tシャツの首元に軽く鼻を入れて自分の匂いをかぐ。問題ない。ほのかに香るこの香りを崢は気に入ってくれるだろうか。香水をつけて来たのだった。これまで香水になど興味がなく所持したことがなかったが弟が自分の部屋の棚にいくつも並べているのを思い出し、彼がテレビの前でぼうっと薄ら笑いを浮かべている間に部屋に侵入していくつもの香りを紙にとって試し、その中から良さげなものを選んで手首と首筋に振りかけてきた。
匂いの確認の次は姿が変でないかの確認である。手鏡をジャージのポケットから取り出し自分の顔を調べる。手鏡など持ち歩いたことがないし所持したこともないので妹が風呂に入っている隙に部屋に侵入してかすめ取ってきた。異常なし。手鏡をポケットにしまう。
時間である。どの方向から帰ってくるだろうか、あの古ぼけた家の向こう側からだろうか、それともぶるぶると震えている蛍光灯の明かりの向こうからだろうか。
足元を小さなカエルがぴょんぴょん飛び跳ねてゆく。車のライトが闇を照らしたのちに消え去ってゆく。
十時を回った。九時半に帰ると言ったがもしかしたらもっと早くに帰っていて、中にいるのかもしれない。水槽のライトを全部消して寝ているのかもしれない。篤史は静かに外階段を登った。
インターホンを押すもドアを叩くも返事はない。鍵も閉めてある。着いた旨をスマートフォンにて連絡してみた。しばらくそのあたりをうろついた。不意に隣の部屋の住人が出てきたので道を開けるもその年配の男に不審の目で見られ、居心地が悪くなって結局先ほどいた場所に戻ることにした。またも傘をさして電柱のそばに立った。傘はぱたぱたと雨に打たれ続けた。
崢は現れない。数時間前に貰った返信を確認する。彼の送ってきた文字を信じる。腕時計に目を落とす。闇の向こうに目をやる。彼が現れるのを待つ。彼は必ず現れる。
雨脚が強くなってきた。それは篤史の草履と素足を濡らし始めた。
どのくらい時間がたっただろうか。不意に蛍光灯の明かりの下に人影が浮かび上がった。黒い傘をさしている。ゆったりと、しかしながら真っすぐに、篤史のもとに向かって歩いてきた。




