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一度、その言葉を反芻した。一瞬意味が分からなかったわけだ、好きでもない奴、それが指し示すものが何であるか、一瞬考えた。直後に脳裏に浮かんだものは崢がベンチから見せたあの薄い笑みで、それが篤史の身から血を引かせた。
自分が打たれたのを人のせいにすんなよ。
篤史を突き放したあの言葉、冷えた声音さえもまざまざと蘇る。
そんなわけはない。胸の内で唱えた。決してえなに聞こえないように、慎重に。それでもまさに一心不乱だ、これまで崢が篤史によこしたゆるい笑みを、親しみに満ちた笑みをいくつもいくつもかき集めた。そうだ、帰さないと言ったあの日はまさに強烈に篤史の身の動きを封じ込んだわけだ、場所を問わず篤史にキスをよこし続けもした。そうだ、そんなわけはないのだ、えなのよこすものはただの挑発だ、そんなくだらないものには付き合わない。
窓の外でかすかにパトカーのサイレンが鳴っていた。ふっ、と篤史は笑った。笑いながらえなの顎から手を離し、そのまま流れるようにその首に手を当てた。
「なんであいつはさ、好きな女をおっさんなんかに差し出したんだろうな」
ふっ、とえなが鼻で笑う。
「賭けてもいいよ」
えなは言った。
唐突に篤史のポケットの中でスマートフォンが鳴る。思わずそれを取り出していたのはメッセージを送ってきたのが崢であるとの確信でもあったからか。いや、崢であってくれと願ってでもいたわけか。篤史の送ったメッセージ、話したいから家に行く、は何時間も無視されていた。
用があって外に出ていて、九時半頃に家に帰るとのことである。その、用、なるものが教習所であると崢は一言も篤史に言わなかったわけであるがもうそれで良かった。返信があった、その事実が篤史の頬を綻ばせた。
「あたし帰るからさ、あんたも帰んなよ。どうせ鍵も渡されてないんでしょ」
えなが笑う。真っ赤なジャージのポケットに手を突っ込み、そこから金属音などを鳴らしながら。
えなに背を向け篤史は玄関を開ける。
「あ、雨の匂い。もうすぐ降るね」
背中の後ろでえなが言った。




