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珍しく鍵が開いていた。中に崢がいるのかと思ったがいなかった。代わりに女がいた。えなだ。
学校での、えん姉さん、大人びた女子高生、そんなさまは魚の楽園では打ち消しとなるわけである。真っ赤なジャージを身に着け、長い髪を垂らしたまま、壊れかけたちゃぶ台に両足を上げ、無数のトランプカードを手にして床に座っていた。
勝手に玄関を開けて入ってきたのが篤史であるとはじめから分かっていたかのようである。えなは実に緩慢に目だけ動かして篤史を見上げた。窓の外はもう薄暗いから水槽のライトのみが頼りだ、そのぼんやりとした明かりの下、えなの唇がふっと笑った。
「ババ抜きしようよ」
いきなりである。ちゃぶ台に乗せた足と足の間にトランプカードを放る。
「七並べでもいいよ」
「二人で七並べしてどうすんだよ」
「それもそうだね」
えなは笑い、横髪を小指で掬って耳にかける。それから言った。
「じゃあ、ポーカーでいいよ、何か賭けようよ」
「何を賭けるんだよ」
「あいつ」
片側に流れた長い前髪の下で切れ長の目が篤史をしっかりと見据えている。唇の片側だけが捲れ上がっていた。
目の奥にあるものは鋭さか。きっと気づいている。
篤史は唇の端っこを舐めた。それからちゃぶ台に乗っかったえなの両足を見やり、
「行儀悪いな」
そんなことを言った。バッターから目をそらして一塁に牽制球を放るかのように。
「まあね」
えなは片頬だけで笑っていた。目は笑ってはいなかった。
「あいつなら、いないよ」
だしぬけに小首を傾げるようにしてえながそう言ってくる。
「どこだよ」
「いないよ」
誘い球か。だしぬけにえなはちゃぶ台から両足を下ろした。床の上にあぐらをかくと、
「知りたい?」
そう言って笑う。面白いことでも思いついたかのように。つっ立ったままの篤史を見上げながら、楽しげに。
「あいつ、教習所行ってんの。自動二輪の免許を取る為にさ、夜間部にさ。知らなかったでしょ、全然」
自動二輪、つまりバイクか。知るわけがない。崢は何も言わなかった。
えなが笑っている。歯まで見せて。実に気持ちよさそうに。あいつね、と言った。
「あたしと約束したんだ、中学の時に。十六になったら免許取ってバイク買って、あたしを一番最初に後ろに乗っけてくれるって。海岸線をぶっ飛ばしてもらうんだ。全部忘れてさ、世間とか常識とか嫌なこととか、ぜーんぶ捨てて、からっぽのまま、無の状態のまま、日本中をぶっ飛ばしてもらうの。気持ちいいだろなあ」
床にあぐらをかいたまま両手を後ろにつき、えなは笑っている。
「あんたも乗せてもらいたい?」
不意に首などを傾げてえなはそう聞いた。耳に絡みついてくるような甘ったるい声だった。
時間の無駄である。本人が不在なのであればここにいる意味はない。篤史は玄関へ向かうべくえなに背を向けた。突如としてシャンプーの香りがふりかかった。えなは猫であるのか、足音も立てず篤史の背の後ろにつき、その身に自分の両腕を絡ませたわけである。
「あいつが野球をやめたのはあたしとの約束を果たす為だよ」
篤史の背中に頬をつけ、えなは言う。
「有言実行。さすがあいつだな」
背中にえなの体温、そして確かな柔らかさがある。二つの、脂肪のかたまり。女であることの主張か。
「あきらめなよ、あいつのこと」
えなの両腕が篤史の身を締めつけてくる。
ふっ、と篤史は笑った。笑いながらえなの両手首を掴み自分の身から外した。そのまま後ろを振り向くとえなの顎を片手で掴み、
「このまま絞め殺す気か? 無駄な努力だ」
そう笑った。
「筋肉に弾き返されて何の意味もない。どうせやるんなら道具を使え」
えなの顎を上に引き上げ篤史はその目に言葉を降らす。
顎を掴まれたままえなは篤史を見上げていた。彼女の顔に広がるものは明らかなる挑発の笑みだった。
「なんであいつってさ、好きでもない奴とやってんのかなと思ってさ」
そう言ってえなは笑う。




