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ここ、ここ、といった具合に崢が自分の唇の隅のほうを指差す。篤史のそのあたりが切れているらしい。それで篤史は思い出した。急に恥ずかしさがこみ上げてきた。あの場面を見られたわけである。可愛いな、などと実に忌々しい言葉を囁かれながら全くその手に歯が立たない自分はもはや男でない気がした。だから崢から目をそらした。自分と同じほどの身長、きっと筋肉量も自分と同じほどであるが崢にもこんな経験があるだろうか。そんなことをふと思いその直後には、いや、ないだろう、そう打ち消した。あるとすれば崢はきっとそいつをぶん殴っているはずだ、その手で。そう思った。負けを知らぬ手だ。
舐めときゃ治る、そうぼやく篤史に崢はふっと笑いかけ、
「来いよ」と言った。「そのまま帰ったら兄ちゃんがびっくりするだろ」
篤史は目を動かし崢の目を見やった。兄ちゃん、と崢は言った。まぎれもなく篤史の兄のことだ。そういえば、と篤史は思った。この夏まで兄は崢から監督と呼ばれていたはずだが教室では今なお、先生と呼ばれているわけだ。兄は崢のクラスの担任教諭である。兄から聞いていた。
「過保護な兄ちゃんだ、すぐばれる」
崢が可笑しそうに笑っている。まさかな、と篤史は思った。食卓で篤史の嫌いなトマトを何とかして食わせる為に兄がそれを箸で細かく切り分けマヨネーズ漬けにしたのちに篤史の口に運ぶことも、そうしてめでたく完食すれば、おりこうさんだ、そう言って篤史の頭を撫でることも、またそれに喜ぶ篤史のことも、知っているわけがない、しかしすべて知っている、そんな笑みであった。
「俺のこと何て言ってる?」
篤史の口から出てきた質問はそれである。篤史の知らない兄、それは学校での兄だ。崢の知る兄である。
「可愛い弟だってさ。彼女ができたら品評会を開いてやるって言ってた」
崢の背中がそう言って、それで篤史は自分が崢の後をついてアパートの階段を上がっていることに気づいた。崢からの返事欲しさに自然にその背中についていっていたわけだ。
やたらとガンガンと音の鳴るやかましい階段であった。階段を上り終えると壁沿いには色褪せた緑色の洗濯機が並び、小さな窓も並んでいるがそれらは土や埃で汚れ蜘蛛の巣が張っていた。唐突にここの住民と思しき年配の男が現れたが崢と篤史をじろりと見やると無表情のまま何も言わずに通り過ぎていき、崢もまた同じく無反応のまま通り過ぎた。また唐突に皿のようなものの割れる音や男女の怒鳴り声が響いてきたがこれも日常茶飯事かのごとく崢は無反応で、ハーフパンツのポケットから鍵を取り出すと一番奥の部屋の前で立ち止まりその錆びついた鍵穴にそれを差し込んだ。
しかしながら他校のエースの住処はここだったわけである。雲の上に住んでいたはずの桐原崢は取り壊し間際と思しき集合住宅に住んでいたわけだ。
戸は悲鳴のような音を立てて開いた。中に入るなり、帰ったよー、などと崢が言うので母親がいるのかと思ったが返答はなかった。代わりに中からは白い光が漏れ出していた。