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5

 試したわけである。崢から命じられたのとは異なる球種を異なるゾーンに放ったのだ、そうしたらバッターは空振りした。遠目であっても篤史が命令に反したことは崢に知れただろうか。篤史の額から顎にかけて汗が流れていた。それを拭うことも忘れていた。まさに恐る恐る、視界の隅にいる崢を時間をかけて見やった。実に飄々としたものだ、崢は次のサインをよこした。


 たまたまかもしれない。たまたまタイミングがずれた可能性もある。もう一度試した。同じ結果となった。つまりバットは空を切った。しかしながら確かに打とうとしたわけだ、ベンチから球種のサインが送られ、それを信じて。


 気がついた時にはもう一度試していた。バッターは空振り三振となった。


 伝令が来る。はっきりと知ることとなった。崢は気づいていると。

 伝令に目をやることなどできなかった。自分の顔が凍りついているのが分かった。

 俺の指示通りに投げろ。

 伝令を通して崢は篤史にそう伝えた。


 その目を見やるのに幾分時間を要した。帽子をかぶり直してみたり足元をならしてみたりして時間を稼いだ。そののちに崢を見やった。やはり飄々と彼はそこにいた。淡々とサインをよこした。


 指示通りに投げた結果打たれているのである。高確率で、と言うより明らかに球種が相手に漏れている。それならばサインを隠すべきだ、変えるべきなのだ。それなのに、である。このまま行け。崢はそう言っている。


 小柄なバッターが大きく足を踏み出した。ジャストミート。勢いよくジャンプしたショートの頭上を打球は越えていった。


 もはやバッティングピッチャーだ、キャッチャーミットまでボールがなかなか届かない。実に愉快そうにランナー達がベースを駆け回る。


 相手ベンチにてキャプテンと思しき者が微笑を浮かべている。その目は一球ごとに崢を見やり、そうしてバッターに指示を出す。


 打つのはバッターだ、しかしサインを送るのはベンチだ、つまりバッターの脳みそとなるのはベンチだ。この試合を運んでいるのはベンチだ。


 すべてを読まれている。しかしながら崢はサインを変えない。


 大柄なバッターが勢いよくバットを振り抜いた。篤史は打球の行方を見ようともしなかった。球は大空を舞い上がった。歓声と悲鳴に包まれ、球はゆったりと空を舞い、スタンドに入った。


 キャッチャーが幾度も駆け寄ってくる。口にミットを当ててバッテリー間のサインの変更を告げるのは一体何度に及んだことか。バッテリー間のサインを変えたところで何も変わらない。崢からよこされるサインを変えなければ意味がないのだ。しかしながら崢は変えようとしない。言葉なき伝達だ、伝令はもう来ない。


 崢が見ている。ベンチから、マウンドの篤史を、じっと。


 投じる一瞬前に右腕が妙な感覚に襲われた。いつの日か感じた違和感と同じだ、まるで自分の右腕が自分のものでないかのような。何者かに遠隔操作でもされているかのような。


 球が浮いた。ワンバウンドにもなった。カウントが悪くなりもはやストライクゾーンにしか投げられなくなった。まさかの連続フォアボールにデッドボール。押し出しの自爆。


 崢は何も言わない。実に淡々と、指示をよこす。


 汗を拭うのは一体何回目になったことか。足元さえふわふわと浮いている感覚があった。ウォーターベッドの上にでも立っているかのような。


 まずは深呼吸である。ゆっくり、深呼吸。あの空気を、取り戻せ。目を閉じ自分に強く言い聞かせる。懸命に集中力の空気をかき集める。そうだ、思い出すのだ。この右腕の中には崢がいる。いる限り安心なのだ、次はきっと、まともに投げられる。


 右腕の中の崢。もはや消え去ったのか、それとも暴れてでもいるわけか。投じる直前におかしな感覚となって篤史を襲うのだ。目も当てられない投球となった。


 キャッチャーがマウンドに駆け寄って来る。内野陣も集まってきた。肩の力を抜け、楽に行こう、俺たちがついてる、大丈夫だ。ありきたりの励ましの言葉が篤史の耳に入る。自分を信じろ。仲間を信じろ。キャッチャーのごつい手が篤史の肩をぽんと叩く。仲間達が散らばってゆく。マウンドで一人、篤史は右腕を思う。もはや自分のものでなくなった右腕。空気を吸い取られ、からからに乾き、そこにいつもの崢はいない。


 崢を見やる。ピッチャーを代えることもせず、実に淡々と指示をよこし続ける。


 一体何人がホームベースを踏んだのか。もう分からなくなった。


 味方の誰もがちらちらと崢に目をやっているのを感じた。ピッチャー交代を望む目だ、誰もがそう望んでいた。ベンチで崢に声をかける者もいた。しかしながら崢は無言であった。


 監督不在の試合、崢が要となる試合だ、崢の作る試合なのだ、だから必ず勝つと勢い込んだ。崢の為に。しかしながら試合が崩れ落ちても崢は何でもないふうである。ベンチからただ篤史を見ていた。


 崢の顔が笑っている気がした。


 ひどく暑いのに、震えが止まらない。キャッチャーが駆け寄ってきた。


 マウンドの上を、潮風がゆく。


 ふっと目をやったその先、スタンドの中に、兄がいる気がした。



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