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4

 きっとまぐれだ、時にはこんなこともあるのだろう。大丈夫だ、この右腕の中には崢がいる。崢がいる限り安心だ、次は必ずバットをかいくぐる。


 キン、という鋭い音が頭の中にこだました。打球は二遊間を抜けた。三塁ランナーが悠々とホームに帰ってくる。初めての失点となった。


 落ち着け。崢はそう言っている。何も慌てることはないと。

 そうだ、落ち着くのだ、崢がそう命じているのだ。何よりこの右腕の中には彼がいる。いる限り、連打は起こらない。


 崢からサインが送られる。サイン通りに篤史は投げる。

 乾いた音を立てて打球がサードの頭上を越えてゆく。二塁ベースに到達したバッターランナーが味方のベンチへ向かって大きく笑い、打てます、打てます、と叫んだ。


 唐突なる覚醒か。突如として打たれ始めたわけである。


 崢は実に飄々としていた。動じないのだ、こんな時でも。実に淡々と、サインをよこした。


 鋭い音が鳴る。ランナーが悠々とベースに戻ってくる。


 一体どんな打撃練習を――篤史は相手チームのベンチを見やった。キャプテンと思しき者が微笑を浮かべながら手を叩いていた。その目がやがて篤史らのチームのベンチのほうへゆっくりと動いた。視線の先には崢がいた。確かにそう思えたのは崢だけがベンチで立っているからか。崢が篤史にサインを送ると相手チームのキャプテンらしき者はバッターに指示を出した。


 まさかな、と篤史は思った。そんなはずはない。サインを盗まれるはずがない。崢のサインは難解なのだ、それを篤史は一日かけて脳に刻み込み覚えた。それでも盗まれているとして、崢がそれに気づかないわけがない。気づけばすぐに篤史に伝令を送り、即座にサインを変える。そうしないのだから違うのだ、しかしながらあまりにも不自然だった。


 球威が落ちたわけでもない。むしろ何も変わっていない。単にバッター達の目が慣れたわけか、しかし各々一打席のみの経験ののちに球種も分からぬまま突如として打てるようになるのか。


 中学では直球の威力によりそこそこ名を馳せていたが今となれば篤史はまるで無名である。変化球を披露するのもこの試合が初めてだった。そんな篤史の投じる球の曲がり具合を、沈み方を、消え方を、前もってわざわざ研究する物好きが存在するのか。このあたりに来た球はその後このような軌道を描く、だから見送れ、だから振れ。そういったことを選手らに指導する者の存在が。


 この右腕の中には崢がいる。この球は崢との合作なのだ、だからめった打ちに遭うはずがないのだ。それなのに打球音がやまない。


 確かに見ていた。相手チームのキャプテンらしき者の目だ、選手らの身体の隙間に見え隠れしながら確かに崢を見ていた。崢から篤史にサインが出れば、そのタイミングでその者はバッターにサインを送った。


 キャッチャーから篤史にサインの確認が来る。三度目のそれに一瞬迷った。迷ったが首を横に振った。四度目で頷いた。心臓が震えた。

 視界の隅に崢がいた。吐く息が震えた。

 投げた。バットが空を切った。


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