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56/122

3


 その目が、そこにある。ベンチに立ち、篤史に向けて小さくサインを送っている。

 内角、ストライクゾーンぎりぎりに、目の覚めるようなスライダーを。それを凝縮したものが崢の手の動きだ、それを読み込み篤史は軽く頷いた。

 キャッチャーが篤史にサインを見せてくる。球種はすでに決まっている。だからただの確認だ。三回目のサインに篤史は頷き、ミットが口を開いた。


 いい感じだ。頭のてっぺんから足の先まで、すうっと、一本の芯が通っている。集中力の空気が集結しているのだ、とても心地よい。

 ゆったりとしたモーションで腕を振りかぶり、振り下ろす。球が走る。バットが回る。ミットのはじけるような音が響く。ナイスボール、味方の歓声が上がる。


 ただの練習試合だ、観客がまばらにいるだけだ。しかしながら甲子園の流れたチームにとっては久々の試合なのだ、誰もが歓喜したし勝利を狙った。打撃においてはキャプテンを、投手陣においては崢を信頼し。大人の介在しないチーム、それが部員達に妙な高揚を与えていた。相手チームもまた監督が不在である状況がそれをさらに加速させた。


 うん、いい球だ。何も言わずして崢はそう言っている。すぐに次の球のサインをよこした。

 二球目も内角。球はバッターの手元で急激に進路を変え、ぐいと食い込むように落ち、そしてミットにばしりとおさまった。またもバットは空を切った。帽子の下で篤史は小さく笑う。


 俺の球はバットに当たらない。すべてのバットをかいくぐる。なぜならそれは崢との合作であるから。


 あいつすげえ。歓声を浴びながら篤史は崢のほうを見た。

 うん、いいな。声のない声が届いている。飄々と、当然のように。そうして次のサインが送られる。淡々と、作業のように。


 三振を取りに行くつもりのようだ。思わず篤史の頬が綻んだ。絶対的な信頼か。手の中であたためたボールをゆっくりと頭の上に運んだ。全身がバネのようだ。身が軽い、心地よい。放った球はバッターの手元でぐんと沈んだ。またもバットは空を切った。三球三振。大きな歓声が上がった。


 変化球の魔王は死んではいない。この右腕の中に、生きている。





 打者が一巡した。最初に対峙したバッターと再び対峙することとなった。

 二度目の対峙となり目が慣れたか。二球目に投げた球が乾いた音を立ててレフト線にライナーぎみに走り、スタンドへ消えていった。ファウル。


 今の球、よく当てたなと篤史は思った。思わずどきりとしたほどだ。曲がりながら沈む球、これをバットに当てた。バットをすり抜け続けた球だ。タイミングが合えば内野を抜けていたかもしれない。


 俺を見ろ。不意に耳元で声がした。瞬発的に崢を見やった。崢からサインが送られていた。


 ツーストライクだ。一球、外そうか。そう来ると思った。タイミングを外すスローカーブでも来るかと思ったが命じられたのは決め球であった。このバッターを絶対に三球三振に仕留めろ。口を結んだまま崢はそう言っている。


 強気だな。篤史は思った。しかしうまく笑えなかった。首筋にじわりと汗が噴き出していた。汗ならもとより大量にかいていた。しかしながらそれらとは異なる類の汗だ、打たれたらどうするかとの思いでもあるわけか。この球を打たれればきっと修復が困難になる、無意識の領域でそうとでも思ったか。しかしながら崢は行けと言っている。


 ちらと、篤史はバッターを見やった。バッターは自身のチームのベンチを見やっていた。監督はいない、だからおそらく誰かの指示を受けているのだ。やがてその視線がマウンドへと戻った。バットを構え、篤史をじっと見据える。狙いを定めるかのように、じっと。


 おまえはベンチからどんな指示を受けた。俺をどう読んだ――篤史は唇の端を舐める。

 息を吐く。手の中でボールをころころ転がす。束の間、目を閉じて、開ける。


 三球目が篤史の右腕から放たれた。その瞬間だった。

 打者がコンパクトにバットを振り抜いた。鋭い音を立てて球はバットに打たれ、ライト線を激しく走った。フェアだ。ライトが必死に球を追いかける。

 打たれた。渾身の力を込めて放った球を。ライトがまごつく。バッターランナーが二塁を蹴る。歓声と悲鳴が上がる中、篤史はマウンドの上で茫然と事の成り行きを眺めていた。


 これは、まぐれか。なぜバットに当たったのだ。それも、ジャストミートで。

 気がついた時バッターランナーは三塁ベースに立って高々とこぶしを突き上げていた。歓声の中、彼の目がゆっくりとマウンドの篤史のもとへ動く。目も口も快楽に歪んでいた。

 崢は何も言わない。実に淡々と、次の球の指示をよこした。


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