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19

「兄ちゃんにできないことをしたのか」

 憤怒だ、それは明らかであった。

「兄ちゃんを無視して電源も切り、兄ちゃんをシャットアウトだ。その間おまえは何をした」

「違う」

 震える声はまともな言葉にならなかったがそれを兄はしっかりと拾って、

「何が違うんだ」

 そう聞いた。すでに篤史の身体の至る所には汗が噴き出していた。

「無理やり」

「そうか。じゃあ抗議しに行こうか」

「違う」

「今度は何が違う」

 兄の唇が笑う、ふっと。

「受け入れたか」


 蘇るものはあの熱である。確かにそこには熱があった。熱に炙られ何もかも分からなくなった。だから篤史は闇を選んだ、つまり目を閉じて記憶から這い出ようとした。そんなことをしても無駄だ、無駄というより逆効果だ、熱を帯びたあの吐息が耳元に首筋に胸のあたりにもっと下のほうに、余計にまざまざと蘇り、その熱は篤史の頬を、耳を、もはや全身を火照らせる。


「答えろ」

 兄の手が篤史の顎を掴み、そこを冷やした。それなのに汗は滲み続けた。

「惚れたか。まさかな」

 暗闇の中で兄が笑っている。


 正座をしていた。それぞれの膝こぞうを篤史はそれぞれの手で掴んでいた。十個の爪が食い込んだ。そこに意識を集中させて熱から逃れようとした。


 何をしても無駄だった。不意に兄の手が篤史の顎から離れた。それから小さく息をつくと、

「大事な時期だ」兄は言った。「ただ、今年の夏は捨てる」

 甲子園の話だと気づくまでしばらく時間がかかった。ボールから声がするとか、ボールに叱られるとか、そんなことを言いながら泣きもした幼い日、その延長としてもはや自分の一部となっていた野球、それが頭からすっぽり抜け落ちることもあると知った。


「監督がいなきゃどうにもならないからな。あいつが監督を消した」

 見やったその目には感情がない。すでに知っていたのだ、あの事件が崢の計画の上で成り立っていたことを。いかにして知ったのか、そしてそれがおそらく崢による報復であったこと、自分を退部に追い込もうとしたという監督への報復、ひいては崢を退部させることを監督にそそのかしたらしい兄への報復であったこと、それさえも知っているのか。


「あいつは監督が邪魔だった。おまえにやばい投法を仕込むのに監督の存在が邪魔だった。それゆえ監督を消した。甲子園も消した。部員全員から、夢を奪った」

 兄は言う。その声にも感情がない。

「あいつはそういう奴だ」

 兄は言った。


 聞こえるものは風鈴の音か。ここに風鈴などあるわけがない、風も吹いていない、しかしながら確かに聞こえるのだ、実に涼やかに、流れゆくように。


「だから言ったんだ。あいつと関わるとろくなことがないと。おまえから大事なものを奪う」

 かつての教え子を兄はそう表現する。

「俺からも奪った」

 兄はそう言った。


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