18
蛍光灯の明かりの下、人影が動いたと思った瞬間、
「遅かったな」
低い声がした。聞き慣れた声だ、兄のものである。家の前だった。
「あと五分遅けりゃ行方不明者届を出していた。本当だ」
言葉とは裏腹にのんびりとした物言いである。蛾の群がる蛍光灯、その白い明かりに照らし出された兄の目もまた、そうであった。
「人の目くらいちゃんと見ろ」
諭される。それにより篤史は瞬時に兄の目から目をそらした自分に気づく。
「どれだけ心配したと思ってるんだ」
憤怒か。憤怒した時兄はいつでも静かに怒った。
それでも目を見ることはできなかった。明かりの下にいる兄は正しかった。テレビで言えば公共放送のような、職種で言えば公務員のような、そんな正しさだ、つまるところ兄はまさに教員で、勤務時間外であると言えどそんなさまで立っていた。
だから篤史は蛍光灯の明かりに照らされないよう闇を選ぶ。
「もうこんな思いさせるなよ」
明かりの下で兄は言い、
「ごめんなさい」
闇の中で篤史は謝った。うん、と兄が答える。
許されたわけだ。意外な早さであった。
「一緒に風呂に入ろうな。待ってたんだから」
しかしながらそう結論づけるにはまだ早かった。兄による審査はまだ続いていた。
「な」
篤史は答えない。答えようがない。
だしぬけに兄が笑う。ふっと。篤史の目を真っすぐに見据えたまま。
「風呂、入ってきたな」兄は言った。「石鹸の匂いがする」
逃げ道はない。兄がその目で道を塞ぐから。
「どこで入った」
「友達んち」
篤史の声が震え、兄の唇の片側が捲れ上がった。
「友達、ね。クラスの奴か」
銭湯に行ったと言えば良かったが今さらだ。うん、と篤史は答えた。すぐに墓穴を掘ったことに気づく。
「親御さんに礼を言わないといけないな。そいつの名前を言え」
兄の目は笑わない。
もはや言い逃れなどできないのだ、篤史は答えた。
「桐原」
「だろうな」
間髪入れずに感想が来た。
やはり兄は分かっていたのだ、そうでありながらアパートのインターホンは鳴らなかった。
「おいで」兄は言う。「湯冷めするぞ」
それ以上兄は何も問わなかった。篤史の手首を取り家の中へ連れた。
目覚まし時計がカチコチと、時を刻んでいる。いくら針が進んでも篤史の意識は遠のかない。
母も祖母も弟も妹も寝静まった家だ、兄が風呂に入る音だけが静かに響いている。
寝返りをうつ。布団を被り直す。時計の針だけが進んでゆく。
暗闇の中ゆっくりと目を開ける。締めきったカーテンの向こう、きっとはるか遠くだ、救急車のサイレンの音がする。
頬が火照る。両手で顔を覆う。
眠れない。眠れるわけがない。
戸が開く。実に静かに。そうしてまた、静かに閉まる。闇の中に揺れるものは石鹸の匂いだ、足音をひそめながら兄が来る。
あまりにも静かなのだ、だからひそめた足音がベッドの前で止まったのが分かった。静寂が流れた。立ったまま篤史を眺めている様子であった。やがてベッドが軋んで、兄がベッドの脇に腰掛けたのが分かった。
「眠れないんだな」
声をひそめて兄は言った。篤史の耳元に口を寄せて。
「悪いことをしてきたんだろう」
兄の吐息が耳にかかる。篤史の背中の後ろから、そっと。
兄は知っている、篤史の寝たふりも、篤史のしてきたことも。唐突に布団を剥がされた。そうかと思えば腕を掴まれ、その強すぎる握力に顔をしかめる間もなく視界が揺れて、ベッドが軋んだ。そうしてベッドに座らせられたわけだが急に起こされた為に軽く眩暈がした。目の前には兄の顔があった。闇にのまれた兄の顔だ、しかしながら闇に目の慣れた篤史にはその表情は曖昧ながらも窺うことができた。
「兄ちゃんに同じことをしてみなさい」
何の感情も宿らぬ目であった。ベッドの上にあぐらをかいた兄が篤史の目をじっと見下ろしている。




