3
風にそよぐ風鈴の音か。それとも静かに打ち寄せる波の音か。崢の目にはそんな音を思ったし、海の香りをも感じた。事実としてこの時、耳元にはさざ波の音がかすめ、鼻腔にはかすかながら潮の香が入り込んで、あまりにも静かな海辺の夜であった。
「捕まっちまうかな」
その声にまで海を思った。どこまでもずうっと広がる、誰もいない海、さらさらとした低い、崢の声。
初めて聞いたかもしれなかった。崢はいつだって遠くに存在していた。そんな彼が篤史に笑いかけた。可笑しそうに、歯を見せて。
「傷害罪。十五になっちまったからな、アウトだな」
いかに自分がぼんやりしていたかが浮き彫りになった。足元に男が蹲っていることを忘れていた。呻き声が上がっているから生きている、つまり意識がある、だからいつ反撃を受けてもおかしくないのだ、通報されてしまうかもしれない。
「とりあえず逃げようか」
まるでいたずらでも思いついた子供のようである。実に可笑しそうに崢は笑いながら篤史の手首を掴んだ。結構な握力であった。そのまま篤史は崢に連れられる形で駆け出した。
潮風を切って走った。永遠かと思われる時間であった。どこまで走るのだろうか、と言うより自分らはどこへ向かって走っているのか、それすら不明であったし崢も何も言わなかった。夜の闇にぽつんぽつんと浮かび上がる外灯だけが頼りだった。あの手が、あの凄まじい変化球を放る手が篤史の手首に絡み続けていた。そこには確かに崢の体温があった。
ひたすらに走り続けたその果てに見えたものは古びたアパートで、篤史の口から出てきた言葉は、どこ、ここ、であり、確かにここがどこであるのかまるで見当もつかず、また閑静な住宅街で暮らす篤史にしてみればここが人の暮らす場所であるようには思えないのであった。
野良猫の溜まり場であった。ゴミ捨て場に溢れかえったゴミを懸命に漁る猫達であるがゴミがあるということはここで人が暮らしているという証である、確かに小さな窓々からはテレビの音が漏れ出しているし、ばかでかいくしゃみの音も、爪を切っているような音も聞こえ、赤子のけたたましい泣き声も響きだした。確かなる集合住宅である。夜の闇に沈み込んだそれをぼんやりと照らしだすのは外灯であり、ぶるぶると震えながら点いたり消えたりを繰り返すその明かりのもとには大勢の虫が群がっていた。
ん? と呼応するのは崢である。長い距離を走ってきたが随分と慣れているのだ、乱れない呼吸がそれを証明した。日頃から当たり前のように走り込んでいる。篤史もまた同じであった。
俺の家、と崢は言う。外灯に照らされながら彼は笑っているが実に飄々としていた。汗をかいているのは一目瞭然であるが実に涼やかなのであった。野球部を引退して伸び始めた髪や大きめのTシャツが夜風になびいているせいか。
家、と篤史は反芻する。耳に捉えた崢の言葉である。崢はふっと笑って、
「手当てしてやろうと思ってな」
と言った。手当て、と篤史はまたも崢の言葉を繰り返して、
「うん、切れてる」
と崢は答えた。