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9

 そこまで言ったのちに兄は実に緩慢な動作で煙草をくわえると火をつけ、ゆったりと煙を吐き出して、それから篤史の目を見やると静かに笑って、

「桐原がおまえに教える投げ方な、いつか肘を痛めるぞ」

 そう言った。


 ああ、と篤史は思う。兄はまさしく、監督なのだ。中学生や高校生といった垣根もなく兄は均一に球児を見ている。遠目で見ながら粗まで見分けたわけだ、しかしながら兄は言った。


「あいつは馬鹿じゃない。それどころか賢い。賢すぎるほどだ。肘を痛めるフォームくらい充分すぎるほど理解している」

 絶賛か。かつての教え子をそう評した。笑ったままだ、実に穏やかに笑んだまま兄は言うのだ。

「それゆえだ。あいつはそのフォームを意図的におまえに仕込んだ」

 まったくもって意味不明というやつである。やはり自分は少しばかり鈍い、いや、かなりか。それでも自分の左手は知らぬ間に自分の右肘を掴んでいた。

 兄は笑っている。笑いながら鋭さをもって篤史の目を見据え、

「故障していいのなら、そのまま投げ続けなさい」

 そう言った。

 この右の肘の中にいる、崢。崢が生み出したのだ、あの快楽も、二人の合作も。それがいつかこの肘を破壊する。兄はそう言う。

 あの切れ長の目が蘇る。そこに鳴るものは風鈴の音だ、いつだって崢は篤史のそばにいたし、楽しげに笑った。篤史、そう呼んだ。呼ばれるのはもう何回目になるだろうか、何回どころでないのは確かである、数えきれない。

「俺の直球は全国で通用しないって桐原は言った。だから」

「何を根拠にそう言った」

 兄は笑う。

「思うつぼだ」

 思うつぼ。その言葉の意味を考える。


 兄の言うことはいつでも正しい。そこに間違いはない。これまでだってそうだった。だから今回もそうなのだろう。酒に酔っているのであれば別だがまだ飲んでいない、ニコチンで脳がやられたわけでもなさそうだ、その証拠にその目は笑いながらもじっと、篤史の目を真っ向から見据えている。


 いつの日か、崢は言った。俺さ、と。誰かに変化球を伝授することで野球を続けたいと思ってるよ、と。


 蘇るものはそれだった。篤史だけを見つめて語った、崢の夢。それは篤史の右腕に入り込み、まさに二人三脚で形にする、その途中であった。


 桐原がおまえに教える投げ方な、いつか肘を痛めるぞ。兄はそう言う。あいつはそのフォームを意図的におまえに仕込んだ、と。


「なんで俺にそんなこと」

 自分の声が遠かった。耳のそばでじんじんと、やたらと虫の声がざわめいて聞こえるせいか。それは一体なぜなのか、分からぬままにどんどん大きくなる。もはや手で耳を塞いでしまいたいほどに。鳴きやめ、そう声を荒げたくなるくらいに。

「そんなことする理由なんかない」

 篤史の言葉に兄はふっと笑う。

 吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、腹減ったな、そんな呟きと共に兄は縁側を後にした。



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