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約束。兄との約束。やはり自分は忘れていたのだ、あまりにも気持ちが良かった。右腕のあの快感が兄との約束をぶっ飛ばしたわけだ、遥か遠くまで。
桐原からピッチングを習ったりはしない。確かに自分はそう言った。そうして兄と交わしたものは誓いのキスである。それを忘れた。
「忘れたか」
兄は知っている。またしてもどこからか見ていたわけか、崢に教わりながら投げる篤史を。もはや否定などできない。だから言った、兄の目を見つめ、瞬きすら忘れて。
「教えてくれる人がいなくなったから」
声が掠れる。確かなる言い訳である。言い訳するなと言われる前に急いで言葉を紡ぐ。
「だからすでに習得してる人から習うのは自然な流れだ。なかなか次の監督が決まらない。甲子園の地区予選ももう始まるのに」
監督の不祥事は部員達には無関係である、さらに監督は懲戒となり学校から去った、それにより甲子園の地区予選も辞退する理由はない、しかしながら監督がいない。辞退も何も監督不在の状況では出場すらままならないのである。そういったことを言おうとした。言おうとしたが口がまめらなかった。と言うよりそういった状況をたった今思い出したわけだ、まさに都合良く。何という右腕なのか、崢との合作を生み出す快楽に浸り過ぎて自身の属する部の危機的状況すら忘れ、部員達の、特に三年生の阿鼻叫喚にさえ上の空だったわけである。
投げられれば良かったわけか、快楽のままに、崢と共に。ほんとおまえは淡々としてるよな。つい最近先輩に言われた。自分のやるべきことをよく分かってんだな、まだ一年なのにな、偉いと思うよ。先輩は篤史をそう褒めた。はたから見ればそうなのだろう、きっと誰も知らないのだ、篤史は快楽のままに投げている、それだけだということを。
きっと誰も知らない。そうだ、きっと、兄も。いや――
見透かされている。そう感じた。感じたら脇の下に汗が噴き出した。額のあたりにもじわりと滲んだ気がした。
「桐原から教われば上手くなるから」
声が震えた。兄の目があまりにも冷えていた。
自分は少しばかり頭が鈍い。しかしながら突如として覚醒した。理由を言うように言えばいいのだ、あの時のように。崢から教わることを禁じる理由、それを聞けばきっと兄は黙る、あの時だってそうだった。だから篤史は口を開こうとした。そうしたら兄のほうが先に言葉を発した。ふっと、ゆるく笑って。
「桐原のことを危険人物だと言っただろう」
今度は兄の笑みが伝染することはなかった。兄の目は笑ってはいなかった。
「その理由を言う」




