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確かに兄は憤怒していた。それゆえ妙に口数が減ったのだ、さらには笑う回数まで減った。というよりあの日よりほとんど笑っていない。篤史の監督が懲戒処分となったことを知った、あの日以来。
「学校でやる人ってほんとにいるんだなって思った」
そう言ったのは篤史である。何も言わない兄の代わりに言ったようなものだ、それほどまでに兄は感想を述べなかった。それもそのはず、なのだ、監督を信頼して預けたわけである、大事な弟を。未来のかかった弟を。とんでもない理由で消えていったわけだ、当然の憤怒であろう。
珍しく兄は煙草を吸っている。と言うよりあの日以来再び、いや、みたびか、煙草に手を出すようになったようだ、またしても禁煙は失敗となった。煙草なんて吸うもんじゃない、そう言いながら兄がくわえる、煙草。中毒性があるのだ、きっと、崢との合作を投じる時のような。授業中にも投げたくなって机の下で指をカーブやスライダーの握りに曲げてしまう感じに。
兄の吐き出す煙が星の散らばる空に溶け込んでゆく。縁側だ、庭の茂みで虫たちが控えめに鳴いていた。兄はタンクトップ姿であるから腕があらわになっているわけだがそこには見慣れた筋肉があった。わざわざそれを褒める必要もない、では何を口にしようか。沈黙の世界である、心地が悪いので打破してやる。わっか作ってよ、と言った。煙草の煙で作る、わっか。指を使わずとも兄は口だけで器用にそれを作ることができ、篤史が子供の頃よりそれをたびたび作っては篤史を笑わせた。
わっか? ワンテンポ遅れての返事となる。わっかな、兄はぼんやりとそう言って、ぼんやりとしたわっかを作った。久々の喫煙となるからか、それとも単にやる気がないのか、わっかもどきは黒い空に薄ぼんやりと消えた。
そこに笑いは生まれない。笑いようがないから篤史は言った。
「前にも学校で生徒とやった先生いたって言ってた奴いるよ。見たって」
ようやく兄のまともな反応を見る。灰皿に灰を落としていたわけだがその手が動きを止めた。
「兄ちゃんの学校での出来事かなと思った」
「誰が言ってた」
兄の目が篤史を見ている。背中の向こうにある居間、そこから漏れ出す明かりをうっすらと浴びる兄の目は静かでありながら確かに篤史の目を捕らえていた。
「え、桐原」
「そうか」
あまり関心がなかったようだ、兄は灰皿のほうに目をやるとそこに煙草を押しつけ、
「今回の監督の件、」
と言った。
「相手の女、川本じゃなかったか」
少しの間を置いたのちに兄の視線が篤史の目へと流れてゆく。実に緩慢に、しかしながら確実に篤史の目から情報を抜こうとする。その間篤史は何を言うこともなかった。突如として現れたその名、そこに浮かぶものは崢の、しーっ、である。誰にも言うな。何も言わずしてそう言ったあの目。
「川本えな」
フルネームだ、かつての教え子であるえなの名を出して兄はその目で篤史の目を見据え、
「おまえ知ってるんだろう」
そう言った。
なぜ篤史が知っていることを知っているのか。まさにその目で篤史から情報を吸い取ったのか。というよりなぜ唐突にえなの名が出たのか。何の脈絡もなく。
「なんで川本だと思ったの?」
「否定しないんだな」
崢の唇に当てられた、崢の人差し指。しーっ。自分達だけの秘密。誰にも言うな。崢は何も言わずしてそう言った。誰にも、の、誰、それには兄も適用されるのか。兄であれば特に問題はないであろう、篤史はそう考えた。個人情報は確かに守られる。なぜなら兄は、教員だから。
「俺らだけの秘密。約束して」
兄はふっと笑う。それから、
「そりゃあ誰にも言わないよ。おまえとの約束なら守る」
そう言った。兄の笑みが移ったかのように篤史も笑った。やはり安心だ、兄は教員だから。
しかしながら、である。
「だがおまえは俺との約束を破った」
兄のその言葉により篤史の顔から笑みが消えることとなった。




