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可愛いな、その言葉が篤史は死ぬほど嫌いだったがそれにはれっきとした訳があった。その言葉を篤史によこすのは大抵男で、そこには気味の悪い色味が含まれるからである。なぜか中学三年になったあたりからそういう場面に遭遇する機会が増え、それは日課である夜のランニング中、公衆便所に立ち寄った時であったり、公園でストレッチを行う時であったり、色々であったが篤史としては実に不本意なことであった。
そもそも可愛げのない男なのである。同じクラスのとある女子が篤史のことを好きだと言えばそれを聞いた女子達が、やめとき、あーんなムスーッとした奴! なんて騒いだほどだし、ある時には野球部の先輩から唐突に、おまえ喧嘩売ってんのか、と言われたことがある。そのような実績があるのだ、つまり無愛想、鉄仮面であり、可愛いな、などと耳元で囁かれる要素など微塵もないはずなのである。
自分には特定の男を吸い寄せる何かがあるらしい、それを自覚してからは周囲の気配に耳をそばだて、いつしかポケットにカッターナイフを忍ばせるまでに至ったがそれを役立たせる時が来てしまえば全く役に立たなくなる、つまりそれを掴む為の手が震えてしまう、そんな調子であった。筋肉も育ってきたし高身長である、しかしながら自分はまだ子供なのだ、それを自覚するのは背後から大人の男の手が回ってきた時、耳元で、可愛いな、を言われる時だった。
やめてください、が相手を刺激することも理解していたはずだった。それなのに口は勝手にそれを言うし、声は頼りなく震えた。それが背後の男を助長して、その口から笑い声が漏れ、篤史の首筋に吐息がかかった。
万事休すであった。男の手は篤史の下半身に向かっていた。逃れる為に息が上がった。一日たりとも欠かさず行っている筋力トレーニングが全く無意味なものであると実感するのは実に不本意なものであった。つまり大人の男の腕力にはかなわないのだ、その手は暴れる篤史の手首を締め上げ身の動きを封じ込んだ。男の息もまた上がっていた、熱を含みながら揺れた。しかしながら相手に万事休すを与える側は無防備になるのだ、それを篤史はこの時知った。つまり男の背後に人が忍び寄っていたわけだが興奮により男はその気配に全く気づかなかったわけである。
鈍い音がした。同時に男の口から漏れ出したのは、ぐっ、であったか、がっ、であったか、ともかくそんな鈍い声で、それと共に篤史の身からその熱い手も離れていった。
絶妙のタイミングで現れた救世主、それが桐原崢だったのである。生活圏が異なるからか近所などで出くわすことは一度もなかったし、夜に走っているであろうことは分かっていたがランニングコースが異なるのか一度もすれ違ったことがなかった。そんな彼が実にタイミング良く現れ、男の後頭部を石で殴りつけたわけである。
まさにあのフォームで殴りつけたのか。エグいとしか表現しようのない、よく曲がる、落ちる、沈む、消える、あの魔球を放る時のフォームで。
崢の右腕はバッターだけではない、大人の男までもを確実に仕留めた。その一瞬の威力を証明するものは地に崩れ落ちることとなった大人の男の姿、そして何より外灯の明かりに照らしだされる崢の、石を握り込む硬質な右手や、露になった右腕、そこに盛り上がる確かな筋肉であった。
飄々と佇んでいるのである。十八・四四メートル先にしか存在しなかった崢、いや、もっと近くに存在したこともあったか、それは試合前と試合後の挨拶時であり、篤史の正面に立ちながらも崢はまるで篤史などここにいないかのように、と言うより崢だけがだだっ広い草原の中に佇んでいるかのようで、つまり一度も目の合わぬままだったわけだが、この晩、初めてその切れ長の目が篤史の目を真っ向から捉えた。その目はあまりにも涼やかであった。