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桐原崢。えげつないとしか表現しようのない魔球を放ってきた男、その手が篤史の手を握らない日はもはやない。
おまえらライバルだったんだろ。男子達は不思議そうに聞いてくる。仲いいな、と。そのたびに崢は篤史の頭に手をやり、顔を自分の首筋のあたりに引き寄せて、うん、すげえ仲いいよ、と言うのだった。雲の上にいたはずの崢は今やクラスメートとなっていた。
崢の首筋、それは篤史の頬とほぼ密着していると言っていい。そこから染み出すものは崢の匂いというやつだ、それが篤史の鼻腔にこもる。
いつものことだがそれもほぼ一瞬の出来事だ、すぐに篤史は崢から離れた。暑い、などと言って。そうか、と崢が笑う。
いつだって笑い声があった。崢と篤史の周りにはクラスの男子達の笑みがあった。その囲いの向こうにたびたび見えるものは笑わぬ目で、それは崢と篤史を見ていた。
えなである。あいつも特待取ったんだよ、と崢は言った。まさに放任されて育ったような女だ、しかしながら成績は優秀のようで、数学のテストで最高点を取った者としてえなの名はたびたび挙がった。
クラスメートとなって初めて彼女の苗字が川本であると知ったわけだが、制服姿も初めて知ることとなった。崢と同じく第二ボタンまで外し腕をまくったそのさまはこなれていて、つまり誰よりも大人に近く、悪く言えばいつだって気怠い、要は女子高生の多くが目指す風貌のようで、実際にえなはクラスの女子達から、えな姉さん、などと呼ばれた。
確かに姉さんのそれだった。魚の楽園で会った時とはやや印象が違った。えな姉さん、それは適したあだ名であった。いつしかそれは、えん姉さん、に変わったわけだが、そのほうが呼びやすいからかそれともえな自身が、えんでいいよ、と言ったからであるか、ともかくえなは呼びかけにいつも、はーいだとか、なにー、だとか答えた。
まさに姉のそれである。クラスで一番小柄かつ童顔の女子をたびたび膝に乗せ、彼女の髪を櫛で梳いてやったり結び直してやったりしていた。えん姉さん彼氏いるの? そう聞かれれば、いるよー、もう長いよと答えた。この学校の人? そう聞かれれば、秘密、そう答えた。
知っているのは本人達、そして篤史だけなのか。一緒のクラスにいながら崢とえなは言葉を交わさない。ともすれば目すら合わさないのである、互いに。だから二人に関わりがあることをきっと誰も知らない。
今日は屋上で弁当食おうか、二人でさ。耳元に囁きがかかる。机の上に座って片手をズボンのポケットに突っ込み、もう片方の手で篤史の腕を抱く崢、その囁き。ちらつくものは男子達の間に見え隠れするえなの視線だ、しばしばえなは女子を膝に抱きながら崢と篤史を振り向いた。
何も言わぬ目である。崢の目はえなを見やりもしない。
しかしながら魚の楽園に足を踏み入れれば二人はきっと互いの髪の中に互いの指を差し込み、互いの唇の中に互いの舌を割り込ませ、ベッドに倒れ込むのだ、すぐにシーツは乱れ、吐息が漏れ出す。
崢と離れて過ごす時間帯、崢に電話をかけても出ない時、ああ、崢は今頃あの女を抱いている、そう篤史は思ったりする。




