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 いつもの声音、優しい兄。怒ってなどいない。そこに怒りはない。しかしながら言葉は確かに篤史を咎めていて、篤史を見据えるその目もまた、確かに篤史を咎めていた。


 憤怒か。兄はいつでも静かに怒る。


 そんなはずはないと思った。秘密基地だ、兄の目の届かぬ場所だ。外を一緒に歩いているのを見られたか、しかしながら兄はまだ学校にいた時間帯であろう、明らかに勤務時間中だった。どうしたって無理があるのだ、やはり鳥でも使って篤史を監視させたか、まさにメルヘンの世界。

「桐原とはもう会わない。そう約束したはずだ」

 兄は言った。


 兄は知っている。どこで知ったのか、何をもって知ったか。メルヘンの世界でなければありえない。その目は何の感情もなく篤史を見据えている。


 頭の回転が少しばかり鈍い、そんな自覚はあったし寝起きであるから尚更そうだ、しかしながらこの時ばかりは脳内に言葉が湧いた。まさに揚げ足取りだ。約束なんかしていない、そんな言葉である。


 一方的なものだった。桐原とはもう会うな。兄はそう言ったがそれに対して、分かった、などと篤史は答えていないのだ。自分の記憶には自信があった。約束として成立してはいない、それは確かなことだった。


 声に出すことはしなかった。さらなる揚げ足取りが予想された。言った言わないの世界だ。いや、それ以前の問題として喉が強張っていた。であるから声がうまく出ず結果として揚げ足取りなど始まりはしなかった。兄の目から何かが出てきてそれが篤史の喉を圧迫している、そんなメルヘンを思った。


 風鈴の音がした。冬だ、風鈴など取り付けていないし窓すら開けていない。それなのに音がした。耳鳴りかもしれない。それでも確かに聞こえた。


 起き上がっていた。そのことで兄の手が篤史の頬から自然に離れた。ベッドに座った。足を床に降ろして。床にあぐらをかいた兄を見下ろす形になった。兄はただじっと篤史の目を見ていた。

「兄ちゃん」

 篤史は言った。それぞれの膝にそれぞれの手を置いて。まさに膝を握り込むようにして。

「桐原と一緒の高校に行かせてほしい」

 一緒に甲子園に行くんだ。崢はそう言った。

 兄は何も言わない。まさに、それをいいことに、か、篤史は言葉を紡いだ。

「いい奴だから。兄ちゃんの言う危険人物なんかじゃない」

 ふっ、と兄が笑った。やや首を傾げるようにして篤史を見やる。

「おまえを心配しているんだよ。あいつと関わるとろくなことがない」

「どんなろくなことがないの? 関わるのを禁止する理由を教えてよ。教えてくれれば少し考える。どんな危険な奴なのか、それで今後を決める。だから理由を言ってよ」

「とにかくだめだ」

 教員である。いややはり父親か。幼い頃に何やら駄々をこねた篤史に対して父親が放った言葉を思い出す。とにかくだめだ。

「フェアじゃない」

 打ち返す。基本的にバント要員であるが選球眼にはやや自信があった。たまには打つのだ、内野安打くらい打ってきた。

「理由も言わずに禁止するなんてだめだと思う」

 ピッチャー返しとなったか。不意打ちなのだ、マウンドの兄は打球を見送った。つまり息をつき、何の表情もない目で篤史の目を眺めながら言った。

「ピッチングを習うのなら監督からきちんと習えと言っているんだ」

 確かなる攻略、その糸口が見えたのである。突破口というやつだ、篤史の頬が勝手に緩んだ。

「桐原からピッチングを習ったりはしない」

 確かに声が弾んだ。

「野球の関わりはせずに、友達として仲良くしていこうと思ってる。だから」

「友達、ね」

 篤史の発した単語を兄は繰り返した。篤史の目を見据えながら。

「それだけだな」

「約束する」

「本当だな」

「うん」

「誓うか」

「誓う」

「それなら、証明してみろ」

「証明?」

 視界が揺れた。腕に強い握力が絡んでいた。そうかと思えば尻に軽い衝撃が走って、それで自分が兄に腕を掴まれてベッドから引きずり降ろされたことに気づいた。

 隙だらけだ。笑った崢の声を思い出す。確かにそうなのだろう、自分は少しばかり鈍い。

 腕一本だった。兄は腕一本で篤史をベッドから引きずり降ろし、あぐらをかいた自分の足の上に篤史を乗せる格好となった。

 兄の顔がすぐ近くにあった。見慣れた、兄だ。やや目尻の下がった、落ち着きはらった、静かな、兄。

「小さい頃よくしてただろ。最近全然しなくなった」

 その目がゆるく笑っていた。唇も、また。

 唐突な言葉を思い出す。キスしよう。何の脈絡もなく出てきた言葉だ、まさに崢が発した言葉。

 兄が言っているのは誓いのキスなるものなのだろう。少しばかり鈍くともそれは分かった。だからそれをした。唇の中にささやかな嘘を引っ込めて。ささやかではない、確かなる、嘘。

 風鈴の音がした。またもだ。閉じた瞼の向こうに崢がいる。

「可愛いな」

 声がした。耳元で兄がそう言っていた。




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