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 唇に降りた、淡い感触。ほんの一瞬触れただけだ、篤史が身じろぎしたから。崢にしても可笑しそうに笑って、お預けだな、と言った。


 そうだったはずだ、その記憶は誤りだったわけか。潮の香に包まれてうやむやになったか。実際には仰向けにされ、両手首を枯れ草に押し付けられて、唇と唇がしっかりと重なり合ったのかもしれない、なぜならその感触が唇にまざまざと残っているから。残っている、とも少し違う。まさに今、この唇の上にある。


 潮の香り、波の音。あまりにも淡い、その感触。


 風鈴の音がした。だから目を開けた。ぼんやりと視界が霞んでいた。枯れ草はなかった。淡い色の空もなかった。あの切れ長の目も、また。であればかすかに聞こえた風鈴の音は何だったか。

「おはよう」

 耳元で声がする。兄の声だった。

 次第に意識が戻ってきた。意識を失っていたことに気づいた。自室のベッドに仰向けになってうたた寝をしていたのだ、見慣れた勉強机や本棚が当たり前のように定位置にあった。

「寝るんならちゃんと布団を被って寝れ。風邪ひくぞ」

 聞き慣れた兄の声がかかる。その目もまた見慣れたものだ、いつもの、穏やかな。床の上にあぐらをかき、ベッドの上の篤史を眺めているさまである。

 夢だったのだろうか。二人を囲んだ枯れ草も、あの空も、笑った目も、あの感触も。何もかも幻だったか。

「寝ながら笑っていた。よほど楽しい夢だったんだな」

 ほら、やはり夢だった。それを証明するのがこれである。笑いを含んだ兄の声、ゆったりと笑う穏やかな顔。

「今日も楽しい一日だったようだな。何よりだ」

 その大きな手のひらが篤史の額にそっと乗る。


 楽しい一日。確かにそうだったかもしれない。今日は崢の言う秘密基地に初めて行って投げてきた。ブルペンさながらだった。壁に覆われているから兄の目を気にせずに済んだ。そのせいか調子も良かったし、お陰で時がたつのを忘れ帰宅するのが少しばかり遅くなったのであるが、少しばかり、であった為か兄は篤史を咎めなかったし何も聞かなかった。楽しい一日だった。明日もまたあそこへ行く。周囲の目も太陽も、風さえもシャットアウトした空間。まさに崢の言う、二人だけの秘密の詰まった空間である。


 篤史の額に置かれていた兄の手が流れるようにゆったりと移動していった。篤史の頬へ。その目は篤史の目を覗き込むようにして見た。それが笑っていないことに気づいた。

「篤史」

 兄は言った。

「約束を破ったんだろう」


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