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1


 桐原崢。この地区の野球少年の中にその名を知らぬ者はいただろうか。


 彼はピッチャーであった。名だたるピッチャーだ。それもそのはず、中学生にしてその右腕からいくつもの変化球を投じた。


 絶対的エースであった。マウンドはもはや彼のものだった。十八・四四メートルを挟んで初めて彼と対峙した時、篤史の胸元に食い込んできたあの球は一体何だったのか、危険球に近いのは確かであったが篤史がのけぞった瞬間にそれは急カーブしてキャッチャーミットに素直におさまったのであった。挨拶代わりであったと言える。大きなカーブだった。


 根性の据わった奴だな、というのが初めて彼に抱いた感情であった。同い年とは思えなかった。二球目も三球目も同じ球をよこした。狙ってやっていたのか、審判から警告が入ってもおかしくなかった。しかしながらストライクだ、篤史は一度もバットを振れず三球三振に終わり、生まれて初めて地面にバットを叩きつけたわけだがそれは凄まじい変化球をよこす彼への嫉妬によるものであったか、それとも煮えたぎる篤史の胸とは対極にあるかのごとくマウンド上に飄々と佇む彼のそのさまに対する感情によるものであったか。


 すでにその目は篤史など見ていなかったし、待っているのは次の打者でしかなかった。まるで何事もなかったかのように手の中で球をころころ転がしていた。


 変化球の魔王めが。


 地面に叩きつけられたバットが夕焼け色に染まりながらそう言ったのを篤史は聞いた。





 滑稽なあだ名である。いや異名だ、崢は変化球の魔王であった。


 彼と対峙した者は言うのである。あいつの魔球は打者の手元で急に逃げ、消えると。ホームランコースに来たと思って勢いよくバットを振っても、どこにも球がないと。打てねえよ、と。


 確かにその通りであったし、彼が手の届かぬ存在であるのも確かであった。そして彼をその存在へと導いたのは紛れもなく篤史の兄であった。


 夢破れた兄は中学野球の監督となり大勢の中学生の指導に当たっていたが、その中の一人が崢だったわけである。一体どんなふうにして崢に魔球を仕込んだわけか、ともかく崢は魔王へと育った。兄が育てた魔王だ、崢は兄の作品だった。


 俺も変化球を投げたい、教えてほしいと篤史は兄に懇願したことがある。一度や二度ではない、幾度もだ、だがそのたびに兄は言った、まだ早い、と。


 兄の肘の故障は変化球の投げ過ぎによるものが大きな要因となっていたようである。だからこそなのか、十三歳下の弟に変化球を習得させようとはしなかった。篤史の通う中学の野球部の監督にまで、篤史にはまだ変化球を仕込まないようにと願い入れていたようである。おまえは俺の言った通りに投げればいいんだ、そう言って兄は篤史の頭を撫でた。ふわりと笑みをよこして。


 きっと自分は兄が笑う瞬間が好きだったのだ、そして目尻が下がる笑い方も好きだった。その笑みはすぐに篤史に伝染したし、口はすぐに、分かった、と言った。


 弟でないあいつには変化球をいくつも教え込み、弟である自分には頑として教えないわけだから、そこにあるものは目先の勝利か、長い未来か、そのどちらかしかないのだと、篤史はそう理解した。


 確かに篤史には長すぎる未来があったのだ。だからそれが消えゆく恐れがあれば兄は憤怒した。憤怒といっても兄のそれは実に穏やかであった。静かに怒るのだ、試合後のベンチにて崢に対して怒った。


 俺の弟を故障させたら許さない。おそらく兄は崢に対しそのようなことを言った。篤史によこしたあの危険球まがいの魔球についてだ、そうして肝心の崢はと言えば、兄に見下ろされながら笑っていた。


 根性の据わった奴なのである。兄を見上げるその切れ長の目も据わっていたし、綺麗な形をした唇は片側だけが挑戦的にも捲れ上がっていた。一見すると細身であるのにその身には自信がみなぎり、それはマウンドに立つ時と同じく飄々としていた。


 甲子園のマウンドを経験し、数多くの修羅場をくぐり抜けてきた兄だ、いつだって地にしっかりと両足を生やし、つまり何に対しても動じずまさに堂々たる教員そのものであったが、もしかすると桐原崢という教え子には厄介な思いを抱いているのかもしれない、そういったことを篤史は不意に思った。


 憤怒を全力でぶつけることが困難な相手、そういうことか。それは崢が自身の率いるチームの要であるからか、それともその目に圧倒されてでもいるわけか、あの兄が。


 兄でさえそうなのだから自分が間近でその目に見据えられればどうなることだろうか、などと不意に思った篤史であるがその機会が訪れることはないはずだった。別の中学に通っているわけだし高校はきっとそれぞれ別の強豪校に行く、だから試合以外で関わることはきっとない。そう思っていた。


 ひょんなことから交流が始まったのである。それはただの偶然であったのか、それとも神なるものがよこしたものであったのか、はたまた何らかの計算が働いたか。分からぬがともかくそれは中学三年の夏だった。野球部を引退したのちの話である。




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