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決定権がないのである。であるから返事をする権利もない。進学先を変更しよう、兄はそう言った。桐原がおまえと一緒の高校への進学を希望しているからだ、と。
引き離そうとしている。その理由は言わなかった。桐原は危険人物だ、そうとだけ言った。
接触した二つの手、崢と篤史の手、それらに崢は目を落とし、しばし眺めていた。崢の手へと絡んでいくことのない篤史の指だ、それでもなお崢の指は篤史の指に絡みついたまま離れない。
「な」
崢の目が再び篤史の目を見る。笑わぬ目だった。
「なんで昨日、来なかった。おとといもだ。連絡すら無視した。待ってた」
桐原とはもう会うな。兄はそう言った。
迎えに来た。そう言って笑った崢が蘇る。群れの中から篤史の姿を探し出し、篤史に向かって真っすぐに歩いてきて、迎えに来た、そう言って笑った崢。
羽音がした。何の羽音だ。スズメであろうか、それともカラスのそれか。崢と篤史の声を拾ってどこかへ届ける為に飛んできたわけか。どこかへ。兄の元へ飛ぶのか。兄の使いか。メルヘンの世界だな、と崢は笑うだろう。メルヘンの世界には縁がない、崢はあの日そう言って笑った。
「しばらく練習はできない」
言葉が篤史の口をついて出てきた。もはや勝手であった。勝手に続きも喋った。
「でも遊びに行く。練習の合間とか、いつでも」
もう会うな、と兄は言った。しかしそれは変化球の習得を禁止する為の言葉だ、ただ会って話すことまで禁止はしないだろう、これまでも篤史の交友関係にまで口を出すことはなかった。
崢の目が篤史の目を見据えている。ただ、じっと。何の感情もない。
「な」
な、を今度は篤史が口にする番となった。先ほどから崢が連用してきたものだ。知らず知らずのうちに篤史の指は崢の手に絡んでいた。
その手が離れた。すっと。まぎれもなく崢のほうが離したのだ、篤史の指と指の間からすり抜けた。
その目を見る。笑っていた。笑いながら身の向きを変え草の上に仰向けになり、空を仰いだ。
「練習しないんなら来なくていいよ。意味ないからさ。会って何するんだって話だ」
あ、ひこうき雲だ。そんな言葉が続く。見てみ、と。まるで何事でもないかのように。崢の口が放った言葉など、何事でもない、そんな様子で。
「水槽の水換えやるし」
またも勝手に口が喋る。掠れた声だ、喉が渇いてでもいるのか、こちらも勝手な喉だ。
「何なら部屋の掃除でも。蜘蛛の糸が垂れてたし」
「いいよ、えながいるからさ」
笑いの混じった声で崢が言う。
他校のエース、変化球の魔王。遠くにある篤史の学校までわざわざやって来て校門で篤史を待っていた。そのわけは単に、篤史に変化球の練習をさせる為であって、他意はない。それを突き付けるのが崢の言葉たちであるわけか。意味ないからさ、と崢は言った。会って何するんだ、とも。
えなの名が出たからであるのか、彼女の姿が脳裏に現れた。あの日以来会っていない、えな。あたしら一緒のクラスなの、そう言って笑ったえな。いっそのこと、あたしら付き合ってるの、とでも言えば良かったのだ、簡潔に、端的に。そうは言わずに蒸し暑い部屋でやたらと二人くっついて、まさに教育上不適切な場面を見せられたわけだ、そこに兄がいれば篤史の目を手で塞いできたかもしれない。
えなは可愛いだろ。崢はそう言った。本人に対してもその単語を発しているのだろうかとふと思った。可愛い。そう言ってあの頭を撫でるのか、または、あの白い頬を。もしくはぽってりとしたあの唇にそっと触れ、いや、自分の唇を当てるのだろうな、ゴミ箱にはその先に至った証拠まであった。会って何するんだって話だ、の、何、それが明確であるのが崢とえなの間柄なのであろう。名誉を得るわけでもない、金にもならない、ただただひたすらに流れる、二人だけの時間。
「しょげたか」
崢の言葉がやって来た。笑いを含んだ声だった。篤史の目を見るその目も、唇も、また。
再び崢の身が篤史のほうを向いた。片腕を枕のようにして頭の下に敷く。その目は真っすぐに篤史の目を見ていて、今その瞳に映っているのは自分だけなのだと篤史ははっきりと思った。
「秘密で練習すればいいだろう」
穏やかな声である。ふわりとかかる。その目もまた穏やかなものであった。絶えず篤史の目だけを見ていた。ふわりと笑って。
「俺ら二人だけの秘密にするんだ」
言いながら崢は人差し指を篤史の唇に乗せた。硬質な指の感触が唇に乗った。




