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 兄は崢の担任教諭だ、だから進路指導をしていて、それゆえ彼の進学先を把握しているのである。個人情報であるはずの教え子の進路を兄はさらりと口にした。


 私立である。金がかかる。篤史は授業料が一部免除される特待生として入学予定だったが崢も何らかの特待を取るのだろうか。それとも野球を続けることを諦めざるを得なかった経済事情、それを押しきってまで入学する予定なのだろうか。誰かに変化球を伝授することで野球を続けたいと思ってるよ。崢はそう言った。共に同じ高校に通い、崢は篤史に変化球を伝授し続ける、共にグラウンドに立ち続ける、そんな未来を崢は望んだか。


 蘇る、風鈴の音。ゆるく笑う、切れ長の目。それを遮るものは兄の言葉であり、

「桐原とはもう会うな」

 兄はそう言った。


 その目は笑ってはいなかった。真っすぐに篤史の目を見据えるのみだ。篤史は聞いた。兄の目をしっかりと見返しながら聞いた。

「なんで? 俺に変化球を教えるから?」

 勝手に口が喋っていたがどの道もうばれているのだ、崢が篤史にカーブを教えた、それはもう兄の目に入っている。それゆえの進路変更なのであろう、兄は篤史を崢と引き離そうとしている。

「変化球を覚えるのはそんなに悪いことなの? もう遅いぐらいだと思うよ。あいつはいい奴だ、事情で野球ができなくなったのに俺を妬むこともなくただひたすらに教えてくれるんだ。兄ちゃんはあいつの担任だからあいつのことよく知ってるでしょ。それともほかに何か」

「習うのならきちんと経験を積んだ正式な監督なりコーチから習うもんだ。同級から習う奴がどこにいる」

 篤史の質問を遮って兄は言う。


 庭の塀の向こうを自転車が走っていった。二台だ、高校生の男子が乗っていた。まさに篤史が進学しようとしていた高校の制服である。二人して口笛などを吹きながら走り去っていった。


「高校に行ってから習え。いい監督さんだ」

 兄は言った。

 いい監督、それは兄の脳内で決まった、篤史の新たな進学先、そこで教える監督のことか。

「篤史」

 呼ばれる。はい、との返事を強要する声音だ、その目の色も、また。

「桐原は危険人物だ」

 兄は言った。

 個人情報の垣根などもはやなかった。自分の教え子を兄はそのように描写した。


 蘇るものはあの笑みである。まぎれもなく、崢の。よく笑う男だ、実際に関わるようになって初めて知ったことであるが彼は実によく笑った。そんな彼を兄はこう描写するのである――危険人物。

「どういう意味」

「そのまんまの意味だよ」

「分からない」

「だろうな」

「いい奴だよ」

「いい奴、ね」

 兄は笑う。ふっ、と。


 カラスが鳴いていた。いつの間にか日は暮れていた。家のほうからはカレーの匂いが漂ってきて、りゅうくん、あっくん、ごはんできたよぉ、祖母の陽気な声がする。


 汗が冷えていた。きっとこのままここにつっ立っていれば風邪をひく。風邪など数年ひいていないが今回ばかりは自信がなかった。早く風呂に入りたいと思った。湯気の中に身を沈め、目を閉じて、意識の向こう側に入り込みたいと、そう無意識に。


 兄がゆっくりと近づいてくる。なぜだかその手を警戒した。しかしながら兄は縁側に向かっただけの話で、そのついでに篤史の耳に言葉をねじ込む、それだけのことだった。

「引退後の練習メニューを渡していたはずだ。それをおまえは無視した」

 急速に汗が冷えてゆく。手の中でボールが冷たかった。

「大事な時期なんだからな」

 兄は言った。至って普通の、いつもの兄の声で。

 



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