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 指を縫い目にかける。フォーシーム。兄から教わった、基本に忠実な、正しい握りである。

 息をつく。そのままボールを握りしめる。集中力の空気がじわじわと集まってくる。それはやがて一本の筋となって篤史の全身を真っすぐに貫く。

 これだ、この空気だ。頭の中に何も宿っていない。設置されたネットに球を放ることしか考えない。とても心地よい。

 ゆったりと腕を振りかぶる。腕に溜まった集中力が筋肉となり熱となり、勢いよく振り下ろされる。

 その直前だった。ほんの一瞬の間、自分の腕が指が、自分のものではない感覚に襲われた。あ、と思う間さえなかった。


 すっぽ抜けか。庭にそびえ立つ木の幹に命中した。枝に止まっていたらしい鳥たちが一斉に飛び立った。羽音を立て、西の空深くに傾き始めた太陽に向かって彼らは去ってゆく。


 兄が球を拾いに行く。ゆったりと。自分が拾いに行くべきだったとその背中を眺めながら篤史は思った。思いながらもぼんやりしていた。突如として現れたあの一瞬の感覚は一体何だったのか。分からない。初めての感覚であった。


 球を拾った兄はそれを手であたためるようなしぐさをし、それから篤史に投げてよこすと、

「いつも通りに投げてみろ」

と言った。


 いつも通りにという、その、いつも。この三ヶ月間に崢に仕込まれた通りにか。いや、それはカーブである。直球を投げろと暗に兄は言っている。篤史は直球しか知らないのだから。それで通ってきたのだから。だから自分は今、直球を投げなければならないのだ、兄から仕込まれてきた握りで、腕の引き方で、肘の角度で。


 思い出せばいい話である。思い出す、それとも少し違う。もはや自分の身に染み込んでいるものなのだ、思い出す必要もない。本能のままに投げればいいのである。


 息を吐く。その息が震えたことに気づく。秋のさなかだ、寒いのだ。というより冬が近い。仕方がない。手だって冷えつつある。だから手首を振って硬さを取り除いてみよう、ついでに肩もだ、上下に振ることで寒さに縮みつつある筋肉をほぐすのだ。


 ネットの中に入らないのである。つまりストライクが入らない。いや、ストライクどころではない、もはやボールの範疇外でさえあるのだ、それほどまでに球が浮ついた。浮つくどころの話でもなかった。それはワンバウンドであったり空高く舞ったりもはや場外ホームランであり庭の柵を越えていった。田舎ゆえに庭が広く隣近所も遠くにある、そのお陰で近所の窓を割ることもない、それは幸いなことであった。そんなことに安堵するほどだ、もはや投球練習が成り立たなかった。


 兄の視線、それが篤史の目元に、右手に、右腕に、右肩に、首筋のあたりに、腰に、脚に、至る所に突き刺さった。あるいは篤史の頭の頂点から足の先までを舐めるように、じっくりと、それは動いた。


 いつも通りに――そう、いつも通りに投げればよいのだ。それだけのことだ。それだけのことが、なぜできないのだ。なぜ。


 いつも通りに、いつも通りに。その言葉を篤史は脳内で念仏のように唱え続ける。その念仏は汗となって篤史のこめかみに、首筋に、脇の下に、そこかしこに、じわりじわりと湧き出し篤史を冷やし続ける。


 しばし兄は沈黙していた。その目を見やる余裕などなかったからそれがどんな色をしているのかすら分からなかったわけだが、ついに発された兄の声はいつもと何ら変わらなかった。

「進学先を変更しよう」

 兄は言った。

 唐突な一言である。端的な言葉であるがそれが篤史を誘った強豪校でなく別の高校への進学を命じる一言であることくらいすぐに分かった。

「なんで?」

 篤史は聞いた。その声が掠れた。あまりにも唐突過ぎた。この情けない数球が、いや十数球か、それが自分の進路を変えることになるのか。

「兄ちゃん」

「桐原がな、」

 またしても唐突である。唐突なる崢の名の登場に息が詰まった。しかしながら崢の名を出した兄、その目は実に穏やかであり、腰に手などを当てながら篤史の目を見ていた。

「おまえと一緒の高校への進学を希望している。だからだ」

 そう言って兄はゆるく笑った。今にも西の山の向こうに消え入りそうな太陽が兄を照らし、その顔にくっきりと陰影を作っていた。


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