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 クラクションが鳴る。派手なその音は田んぼ道によく響いた。犬を連れて散歩中の老夫婦だとかジョギング中の若者が振り向いた。子供らのはしゃぐ声や虫の声くらいしか聞こえてこない片田舎にそんな音が響き渡れば誰もが振り向くのである、救急車のサイレンでも鳴り響けば尚更。


 もちろん篤史もその一人であるから当然のように音のしたほうを振り向いた。見覚えのある車だ、まぎれもなく兄のものであった。田んぼ道に似合わぬ艶々のそれは篤史のもとでするすると速度を落とした。夕焼け色を浴びた助手席の窓がゆったりと開く。

「篤史」

 兄の顔が覗いた。右手でハンドルを握り、左手で篤史に手招きをしている。

「おいで」

 兄が笑うと篤史も笑う。まるで条件反射のように。


 自慢の兄であると言っていい。こういった時などは特にそんな思いが強まった。左手でハンドルを操作し右手は運転席のドアに預け、兄は実に滑らかな運転をする。田舎ゆえなのかやたらとやかましく音を立てながら車を飛ばす若者が多いのだが、そんな時兄はいつだって穏やかに笑って、ああいうのを空のバケツって言うんだよ、と言った。兄の車は実に静かであった。テレビもラジオも付けないから人の下品な声など一切ないし、余分な物も一切乗せない、だからいつまでも展示車のような静けさをたたえ、あるものと言えば涼やかに鼻腔を撫でる香水の香くらいのものか。


「練習はもう終わったの?」

 助手席で篤史は聞く。西の空に太陽がいる、であるから兄は自身の勤める中学のグラウンドで野球部員達へ指導をしている最中のはずだった。ジャージ姿であるし今日は途中で自主練に切り替えでもしたのだろうか。

「今日はおまえと過ごそうと思ってな」

 兄が言う。その横顔もまた静かであった。

「野球部の連中ばかりに構っておまえをずっと放置してたからな。久々に一緒に投球練習をしよう」

 車は夕焼け空に向かって進んでゆく。確実に家へと向かっている。投球練習、それを家の庭で行う為に。


 投球練習ならもう終わった、などと言えるはずもなく篤史は助手席で黙ることとなった。今日も崢に教わりながら相当な球数を投げ込み、先程彼と別れて帰り道を一人で歩いていたところであった。


「肩は出来上がっているだろう」

 兄は言う。片手でハンドルを握り、真っすぐ前だけを見つめたまま。

「ずーっと練習してたもんな。見てたよ」

 静かなものであった。実にさらりと、そう言った。見てたよ。その言葉が意味するのは崢のアパート近くの公園で崢に教わりながら投げる篤史のさま、まさにそれである。


 なぜ見ていたのか。というよりなぜ篤史がそこにいるのが分かったのか。後をつけたのか。そんなはずはない、そんなことをする理由もない。教え子である崢の家に用でもあったのか、その際にたまたま見かけたのか。そうして公園の近くに車を停めて眺めていたわけか、全く視界にすら入らなかった。しかしながら崢と篤史は兄の視界の真ん中にいたのだ、遠目にもカーブを投げているのが分かっただろうか。


 まだ早い。兄はそう言い続けてきた。おまえは俺の言った通りに投げればいいんだ、ひたすらに直球の精度を上げろ。篤史にそう命じ続けてきた。篤史の中学の野球部の監督にまで願い入れをしていたほどだ、それなのに篤史はこの三ヶ月、カーブばかりを投げてきた。兄の知らぬところで、いや、兄の知ったところで、か。


 信号が赤になった。車はゆったりと停まった。前を見たまま兄はハンドルから左手を離した。その手はそのままゆったりと篤史の手元にやって来て、兄の視界の外で篤史の手を探し当てた。


 手を引っ込めることなど許さない。兄の手はそう言っている。何も言わずして。


 篤史の指と指の間に割り込むように兄の指たちが絡みついてくる。真っすぐ前を向いたままの、笑わぬ目がそこにある。



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