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まさに崢が入り込んでくるのである。女になったことはないし自分はえなでもないからその感覚は分からないが、崢の身体の一部が入り込んでくる、そんな妙なことを思った。崢が体内に入ってきて篤史を操作するのだ、それほどまでに球が走った。
「覚えがいいな。さすがだ」
耳元で崢が笑う。
きっとこの感覚はえなには得られない。崢から与えられるこの感覚はきっと自分だけのものである。そして篤史の右腕からネットに向かって放たれる球はまさに崢との合作で、生み出される子供そのもののように思えた。
カーブの握りくらい知っていた。兄に隠れて握り方を覚えた。しかしながら崢が篤史に教えた握りは篤史が我流で覚えた握りとは少し違った。肘の引き具合も投げおろす角度も、また。
「そうだ、いい調子だ」
崢の手のひらがたびたび篤史の後ろに回ってきて頭や肩のあたりを撫でる。
これまでにも誰かに投げ方を教えたことがありそうだと思った。後輩に教えてきたのだろう、自分もそうだった。しかしながら篤史は後輩から陰で囁かれたことがある、西山先輩は指導者には向いてないタイプだよな、と。つまるところ教え方が下手だったのだ、というより非常に面倒見が悪い、その自覚があった。その対極にいるのが兄であり、崢もまたそうであることを知った。兄と崢はきっと同じ部類なのだ、対象を褒めて伸ばそうとするところもまた。
であるから崢も兄から褒められて育ったわけか。分からぬがともかく篤史は心地が良くて、カーブを一球生み出したのちにはまた次の一球を生み出したくてたまらなくなった。それは次々に生み出された。次の日もその次の日も、そのまた次の日も。次第に精度が上がり、よく曲がった。やがて崢がかつてのチームメイトであるキャッチャーを呼ぶようになって崢との合作は彼のミットを唸らせるようになり、彼自身をも吠えさせることとなった。ナイスボール、と。
「うん、いい球だ」
崢も言った。キャッチャーの後ろに立ち、ゆるく笑って。
自分がマウンドに上がる日はもう来ない、しかしながら篤史の中に入って球を生み出すことはできる。そんな具合の思いがよこすものであろうか、その笑みは。
伝染するのであった、その笑みはいとも簡単に篤史に伝染した。崢との合作だ、いくらでも投げたいと思った。
体内に、崢がいる。この右腕は確かに崢に操作され、生み出されるこの球は確かに二人の作品であった。来る日も来る日も投げ続けた。カーブだけを投げ続けた。二人の作品のみを、ひたすらに。いつの間にか直球は封印されていた。それはとある日、崢にこう言われたからであったか。
「おまえの直球は全国で通用しない」
と。
辛辣ともとれるその言葉を篤史は妙な素直さで聞いていた。直球には自信があった。威力があるとも評されてきた。確かにそれはキャッチャーミットを唸らせた。バットに当たったとしてもそれはバックネットだとかファウルグラウンドだとかに舞い上がった。だからこそ強豪校から誘いが来たのだ、しかしながら崢はそれを否定した。短すぎる言葉だった、理由も言わなかったがそれは確かなる桐原崢の言葉であり、ただそれだけの事実が篤史を妙に納得させた。今のおまえは直球をひたすらに磨き上げるんだ、との、どれほどの月日がたとうが念仏のように唱え続けられてきた兄の言葉さえもその時には完全に記憶から消え去っていた。いや、崢が消したのか。崢の切れ長の目がすぐそばにあって、篤史の目を真っ向から見据えていた。
その目が、笑った。唇も、笑った。そこに夕日が差してきて、それはまさに夕方の海辺であり、確かにさざ波の音がした。
「おまえは俺の分身になるんだ」
崢は言った。その手が篤史の手を掴み、彼の体温が自身に染み込んでくるのを篤史は確かに感じていた。




