10
可愛いな、と兄は言う。頻繁に。篤史の頭を撫でながら、ある時は頬を撫でながら。そのたびに篤史は自分が生まれて十五年経過した人間であることをいつも忘れる。いつまでも篤史は小さな弟であった。
兄の言う、可愛いな、それは篤史を心地良くさせた。それを言われて嫌悪感を感じない唯一の男が、兄であった。まさに過去形だ。唯一の男、確かにそれは過去のものとなった。
死ぬほど嫌いだった、可愛いな、それを崢に言われたわけだがなぜだか不快に思わなかったわけだ、むしろそれは耳元で心地よく揺れさえした。
「どこに行っていた」
確かに兄は憤怒していた。篤史の帰りが遅かったこと、スマートフォンに何べんも入った着信に返事ひとつしなかったことに対して憤怒した。憤怒と言っても例によって実に静かに怒るのであったが。
仁王立ちである。床から二本の足をしっかりと生やしている。篤史が玄関を開けるなりそのさまが出迎えたわけだ。その二つの目は篤史の目を真っ向から見据えていた。まるで篤史の目からあらゆる情報を吸い取ろうとするかのごとく。
優しい目なのである。誰もがそう言う。目尻が少し垂れているから柔和さを人に与えるのか、しかしながらこの時ばかりはそこから苛立ちが立ち昇っているのを篤史は確かに感じた。怒っているのだ。
「ごめんなさい」
「なんだか嬉しそうだな。なんかいいことあったか」
口元を綻ばせて兄は聞く。
自分は嬉しそうな顔をしているわけか。いいことって言うか、などと言ったのちに、
「桐原崢と会ったんだよ」
篤史は答えた。
そうか、あいつに会ったのか、といったような言葉が返ってくるのを予測していた。その目は嬉しそうに笑うはずだった。兄の受け持つクラスの生徒なのだ、そしてこの夏まで共にグラウンドで汗を流した。そうであったはずだ、しかしながら兄の顔からは笑みが消えた。
「どこで桐原と会った」
実に静かな目をしてそう聞いた。
生活圏が異なるのだ、これまでに一度も出くわしたことがなかった。いかにして出くわしたのか、兄はそれを聞きたいわけだ。
「たまたま道端で会った」
篤史は答えた。しばし篤史の目を静かに見据えたのちに兄は、ふっ、と笑って、
「たまたま、ね」
と言った。
男に襲われたところを助けてくれた英雄であることは黙っておいた。矢継ぎ早に詰問が来るのが分かっている。
「手当てしてもらった」
篤史は自分の口元を指差す。
「こけたから」
兄の目がちらと篤史の口元を見やる。それから、
「そうか」と言った。「妙に親切だな」
妙な静けさがあった。やはり憤怒であろう、兄は怒ると静かになる。帰りの遅い弟を心配していたのだ。
「遅くなってごめんね。いろいろ話をしてた」
「あいつの家に行ったんだな」
なおも兄は静かである。その静か過ぎる目は篤史の目から離れていくことがない。
「うん。水槽がすごかった」
兄は崢のクラスの担任だ、家庭訪問があったはずだ。あの魚の楽園を兄ちゃんも見たかと聞こうとした。
「まともに話したこともない奴の家に行ったわけか」
問われた。その目はじっと篤史の目を見据えていて、まさに篤史は捕らわれていた。早く靴を脱いで家の中に上がりたかったし汗をかいているから早く風呂にも入りたい、しかしそれができない。
「別に初対面じゃないし」篤史は言う。「兄ちゃんの教え子だし」
だしぬけに、ふっ、と兄は笑った。
「そうだな」兄は同意した。「あいつは俺の教え子だ」
事実を述べているのみである、しかしながらなぜ兄の表情は硬いとの表現が適切に思えるのか。笑っている、それでいて目が笑っていないのだ。ただじっと篤史の目を見据え、表情のない声でそう言ったのである。
突如として篤史のポケットの中でスマートフォンが鳴った。なぜだかその音に安心のようなものを覚えた。張りつめた糸がぷつりと途切れる、それによって兄の目から逃れられる、そんなことを思った。
メッセージをよこしたのは崢であった。無事に帰りついたか、とのことである。明日もうちに来いよ、待ってる、とも。
「誰からだ」
咄嗟にスマートフォンを隠してしまったのは無意識のなせる業か。明日もうちに来いよ、その言葉は兄に隠す必要があると無意識に感じたのか。
「俺に隠し事か」
兄は笑っている。唇だけで。その大きな手のひらが篤史のもとに差し出された。
「見せなさい」