8
右手同士が絡み合う。ライバルとしてぶつかり合ってきた者達の手だ。この手で投げてるんだな、と崢は言ったが篤史もまた、そう思った。性格が悪いとしか言いようがない、と誰かが言った、篤史にしてもそう思った、あの、曲がり過ぎる魔球の持ち主である他校のエース、変化球の魔王の手が今、篤史の手の中にある。
「怖くなかった?」
問われる。唐突である。そして主語がない。だから篤史は聞き返す。何が、と。水槽のライトに照らされながら崢の目は笑っていて、その後ろで水草や熱帯魚達がゆらゆらと静かに漂っていた。
「兄ちゃんと敵同士になること」
崢は言う。簡潔な言葉であるが言いたいことはすぐに分かった。だからすぐに答えることができた。
「仕方なかったから。兄ちゃんの勤める中学は校区外だったわけだし」
「ボーイズリーグにでも行ってれば兄ちゃんと敵同士になることもなかっただろ」
「兄ちゃんが中学の野球部に入れって言ったから」
「早めに硬式に慣れてたほうがいいとは言わなかった?」
「軟式のほうが故障のリスクを抑えられるって言った」
「故障、ね」
言いながら崢が篤史の手へと目を落とす。それからゆったりと顔を上げるとゆるく笑って聞いた。
「高校は強豪に?」
「誘いが来てる」
「だろうな。その高校について兄ちゃんはなんて?」
「行けって言った」
「行くなって言ったら?」
「行かない」
ふっ、と崢が笑った。可笑しそうに歯を見せて笑った。それから言った。
「兄ちゃんばっかだな。野球、好きか」
不意打ちのような質問だった。想定していなかった質問だ。その問いをこれまで誰からも受けたことがないのに気づいた。
崢は変わらずゆるく笑っている。絡んだままの篤史の手を指でなぞるように撫でながら、
「いや、いい。妙なこと聞いたな」
そう言った。結局篤史の返答はうやむやになった。
捉えどころがない、との表現が適切か。ともかく飄々としているのである。ベッドに片足を立てて座っているだけだ、それだけで崢は風を纏っていた。その目にはやはり波の音を聞いた。
聞いてみたかった。篤史の口は開いた。同じ質問だ。野球、好きか。
返事は来なかった。代わりに崢は、しっ、と、人差し指を自分の口の前に当てた。何事かと思えば、耳をすましてみろ、である。その目は実に愉快そうに輝いていた。聞こえるか、ほら、喘ぎ声だ。崢が言い、言われる通りに耳をすましてみると確かに壁の向こうから女の声が聞こえてきた。すげえだろ、隣のおばちゃんは絶叫系だ。くっくっと実に可笑しそうに崢は笑う。聞き慣れているのだ、しかしながら篤史にしては教育上不適切なあれだった。兄から動画の閲覧を制限されている、あれ。隣で繰り広げられているのである。
今な、と崢が言う。こんなふうにやってんだよ。言うなり彼は絡んだ篤史の手を勢いよく引っ張り、不意を突かれた篤史はそのままベッドに仰向けに倒される結果となった。