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「きみのお兄さんだな」
篤史の肩に手を置き警察が言った。畳に座り込み、両足を抱えた篤史はすすり泣くばかりである。
「何があったのか教えてくれないかな」
警察や救急隊員など多くの人間がばたばたと出入りするここはもはや自分の暮らす家ではない。
ぼやける視界の中に捉えるのは崢の姿であるが、警察からの質問に対し事実だけを淡々と述べ続ける彼、その落ち着きぶりは奇妙なほどだった。まっすぐに伸びる背筋も堂々とした口ぶりも、いつもの崢と変わりなかった。
幾人もの警察に取り囲まれ、野次馬の視線に刺され、冷たい夜風を肌に感じながら別々の車に向かった。車に乗る直前、崢が篤史を振り向いた。目が合ったその一瞬の時間を篤史はきっと忘れることはない。
じゃあな、とその目は言っていた。笑って。
「桐原崢。彼がきみのお兄さんを切りつけた。間違いないね」
頷く。
「間違いないんだね」
「間違いないです」
九官鳥のようにまたは馬鹿になったように、相手が投げてきたものと同じ球種で返球しなければたちまち豪速球を投げつけられる。
「きみはお兄さんと仲は良かったかな」
「良い時もありました」
「最近は」
「暴行されてました」
「暴行か。暴行と言うと」
「叩いたり、色々」
「色々と言うと」
自身の膝を両手で掴み込む。それぞれの指達がそれぞれの膝こぞうに食い込んだ。
「色々です」
「西山くんね、」
男が篤史の苗字を呼ぶ。ため息混じりに。逃げることは許さない。その目は言っている。
自分の口が何かを言った。自分の声が自分に届かなかった。であるから目の前の男には尚更届かないわけだ、しかしながら男はそれ以上篤史の口からその答えを引きずり出すことはせず代わりに小さく息をつくと質問を変えた。
「その色々な暴行を誰かに相談したのかな」
「いえ」
「お母さんやおばあちゃんは暴行について何か言ってたかな」
「気づいてないみたいでした」
「みんなに隠れてお兄さんはきみだけに暴行を」
「はい」
「桐原に相談は」
「特にしてません」
「じゃあ一人で耐え忍んでいたわけか。そりゃつらいな」
風が窓を叩いている。そのそばでカメラがこちらを見ている。じっと。
「お兄さんにいなくなってほしいと思ったことは?」
篤史は目の前にいる男をすっと見据える。あからさまな直球である。
「別に怒ってるわけじゃないんだ。事実を教えてほしいだけだよ」
篤史の兄はかつて豪速球投手だった。時速百五十キロを超える球を放っていた右腕は高校時代の故障によりプロ野球への道を諦めた。
篤史、おまえに夢を託す。
兄にそう言われたのは四つの頃だったか。篤史ははっきりと覚えている。
兄ちゃんの果たせなかった夢だ。幼い篤史と目線を合わせて兄はそう言った。
夕焼け空の下で兄の顔は陰影がくっきりついてよく見えず、篤史はただ、兄の大きな手のひらに乗せられた汚れた野球ボールをじっと見つめた。
兄ちゃんの夢のかけらか。子供ながらに篤史はそんなことを思った。
確かに兄の夢の断片であった。兄の手から篤史の手のひらへと渡ったそれは意外にも重かった。兄の夢は確かに、重かった。
「大事なところだからさ、ちょっと頑張ってくれないかな。何度も言うけどね、我々はただ真実が知りたいだけなんだよ。怒ってなんかいない。大丈夫だから本当のことを言いなさい」
「兄の頭をバットで殴ったのは僕です」
少しの沈黙ののち、
「バットに付着していた指紋は桐原のものと一致するそうだが」
「彼が僕の指紋を布で拭いて自分の指紋を付けました」
「なんでそんなことをしたと思う。きみを庇ったのかな」
男の目が篤史の目を真っ向から見ている。据わった目である。
「きみと彼の関係は?」