第1話;黎明 (Blooming) -⑦
アクセス頂きありがとうございます。
拙い文章です、ご容赦ください。
『リヴ』は全女性が会得する異能力である。
リヴには数百万の種類があるが、能力を発動する為のメカニズムは全て同じ。
人体の熱の性質に似た、リヴの元となるエネルギーを体内の発生源から常に産生、適度に体外へ放出しているのだ。無論リヴァにのみ備わった機構である。
対して、十人十色の現象で意識的に対外へ放出するのがリヴである。心臓に近い位置で蓄積されたリヴのエネルギーを、適宜リヴとして変換している。
意識的にとは言ったが、正しく制御できるまでに訓練は必須であり、無意識にリヴとして放出してしまうケースも存在する為、意識的に体外へ放出できるが正しいだろう。
ただ、リヴを制御する必要がないタイミングはいくつか存在する。
例えば、寝ている時や気を失っている時だ。それらの間はエネルギーをリヴへ変換する機能が停止する。
つまり。
アサヤ、マヒル、ヨイチが三人だけでリヴァと対峙することになってしまった場合、リヴァを無力化する為に狙うのは「敵の失神」ということだ。
今回の中条への対応もこれまでと一緒。頭部や腹部を攻撃して失神させることを作戦とした。
「─────っ!」
敵の連撃を潜り抜けマヒルが放った胴廻し回転蹴りが、狙っていた通り中条の鳩尾へ直撃した。
その一瞬、リヴを含めた中条の身体が停止する。その体勢で痛みを耐え、息をしようと試みているようだった。
攻撃した本人は地面から心配そうに立ち上がろうとする。
「お返し」
息を一つ吸えた時、彼女は常盤色のケーブルを地面へこすらせながらマヒルの鳩尾へ拳を突き上げた。その間数秒。
衝撃で彼の大きな全身が軽々十センチほど宙に浮き、駆け寄っていたアサヤの足元へ振り払われる。
受け身も取らずうつ伏せで汚くバウンドした彼に声をかけるも。
「マヒル!しっかりしろ!」
「…………」
右頬が少し腫れたマヒルはぼんやりと薄く目を開けてはいるが応答はない。腹部も無事ではないだろう。
甘く見積もっていたわけではないが、女性の身体があまりにもタフすぎる。
二本のケーブルをハの字に下ろし、本殿への参道を狛犬の足元まで歩きながら中条は言う。
「本当にすごいよ、マヒル君アサヤ君。リヴァ相手にここまで対抗するとは思わなかった」
「先輩は、元から俺らを協力者にする気なんてないですよね」
「あっは、やっぱりバレてたか。でも後腐れなく戦えたでしょ?」
中条は微笑み、装填されていた二発の弾を同時にアサヤより少し前の地面へと撃ち込んだ。
無駄撃ち、というわけではないのだろう。相手は決着をつけにきている。
サシで戦えるとは思えない、どう立ち回るべきか。
数歩後ろへ下がった彼女は左手の指背を丁寧に唇へ接触させる。
リヴの予備動作、何かくると身構えた。
その時。
どこからかしゃがみを支えさせていた左手首を掴まれた。
体勢を崩すほどグッと強く引かれてしまい、バランスを失った身体は膝をつく。
ドスゥゥゥン!!
直後凄まじい着弾音を鳴らし高速で自由落下してきたそれは。
マヒルが先刻蹴り上げた弾が落下してきたのだろう、アサヤが丁度しゃがんでいた参道に深く食い込み刺さっていた。
避けていなかったら直撃していた。彼は朦朧としつつもアサヤの危機に無意識に反応し助けたのだ。
役目を終え、掴んでいたその手は力が抜けポトリと落ち、そこでハッとする。
予備動作が妙に長かったのは、これを待っていた為か。マズい────!
「『鳳千歌』」
ピフィィィィィ!!
モスキート音に似た薄くも鋭い中条の指笛が境内に響き渡る。
二人の周囲にめり込んだ四つの砲弾が共鳴、身を震わせ、その中身を四方八方にはじき出した。
正八面体の中身から飛び出したのは礫、身体に穴を開ける程の貫通力はない。だが複数箇所から浴びせられる散弾は数百、彼らの位置で交差し入り混じる弾道は避けようにも避ける空間がそもそも存在しない。
戦闘序盤から境内の地面目掛け撃つことで配置し仕掛けた、中条の第二陣の攻撃であった。
マヒルによって回避できた砲弾は、彼の頭部から一メートル無い距離に埋まっており、急所へかつ距離が短い分被弾数が多くなってしまう。
ただただマヒルへの被弾を減らす一心で、アサヤはその砲弾が破裂する寸前、マヒルの頭部を守るように覆いかぶさった。
「っ─────………」
たった一つからはじき出される弾を遮断したところで他の砲弾からの弾がマヒルに直撃してしまっていたが、アサヤのおかげで頭部への被弾は大幅に減少した。
一方、主に身体の背面に礫の豪雨を受けた彼は、皮膚の感覚すらなくなりぐったり崩れ落ちる。
散弾はリヴァや神社に当たらないよう調整されていたのか、動かずとも中条本人が弾に当たることはなく。
男二人が戦闘不能になったことを確認し、中条は自身のカバンから何かを取り出すとハチの巣になりかけた二人のもとへ歩み寄った。
「仕事を終わらせよう」
彼女の参道を歩く音が直接へばりついている耳伝いに聞こえる。
背中のケーブルを体内にしまい横たわるマヒルの付近で足を止めると、何かがボスッと土を突き破って現れた。
まともに動いてくれない身体で音の行方を探す。
中条に撫でられる珍妙なそれはにょろにょろと身体をくねらせ足元の土から生えていた。背中に生えるものよりも細いケーブルを肩の高さまで伸ばしていた。
「終わったの?ちょうど良かった」
「…………な、にを」
「ん、あー下のヨイチくんをちょっとね」
「っ!ヨイ────」
キシャァァァァ!
代わりにアサヤへ応答したのは撫でられていたそのケーブルの先端だった。
他と異なり先端は砲弾ではなく、生物の口のように四つに裂けてパカッと開けたそれは。サメのように小さく鋭利な牙が内側の表面を埋めるように生え、中央には銃口のように暗い穴がある。
明らかに中条の背中に生えていたものとは異なる生命体、まさにエイリアン。
ああそうか。納得できたことがある。
ケーブルから放たれる大きな砲弾とは違い、マヒルの腿を撃ち抜いたのは小さな弾だった。
その正体がこのエイリアンだ。マヒルとの戦闘中はヨイチを奇襲する指示があり、不参加だったのだろう。
「大丈夫、下の彼は生きてるはずよ。殺さないように言っておいたから。さ、準備はいい?」
手に持った三枚の白いカード。印字のない純白なそれはどこか見覚えがあった。
揃えた両手にカードを乗せた中条は、手乗りインコに言葉を教えるように語りかける。
「認証」
ワードに反応して光輝く3枚のカード。
それぞれ徐々に長方形は中心に向かって縮小し、高さが反比例してより立体感が増す。
遂には、やや柱状の白みがかった結晶が完成する。
サイコロサイズにコロっと転がった三つのうちの一つを摘んだ中条。
「ふーちゃん、これ下の彼にお願い」
ふーちゃんという名のケーブルは次の指示を聞き入れ、手渡されたそれを咥え土の中へと沈んでいった。
続いてもう一つを摘み、しゃがみこむと地面に伏しているマヒルのうなじへ近づけた。
引き抜いたジェンガを最上段に積むように。
指を離したことで落下していく八面体結晶は、皮膚に弾かれることなく体内へポチャっと沈んでいった。
抗うこともできないマヒルはされるがまま。
最初は特に変化はなかったが、数秒後、様子がおかしくなった。
「ぅぐぐぇぁああ!!」
断末魔。内側からの強烈な痛みにマヒルは叫び始めた。左胸の服を握りしめ、ダンゴムシのように身体をまるめて痛みに耐え苦しんでいる。
三人の中で一番痛みを知っているだろう彼が今まで見たことのないほど踠き苦しんでいる様子をアサヤはどうしてあげることもできない。
ナメクジに塩をかけた経過を観察する中条は分析を独り言のように呟きながら眺めていた。
「聞いた話では適応するか、過剰反応で化け物になるか、不適応で死ぬかの三択らしいけど……マヒルくんはどれかな」
「っっ!!!!」
マヒルが化け物に?マヒルが死ぬ?
アサヤが混乱している間にも、マヒルは陸に上がった魚のように静かになっていった。
わけがわからない、あまりにも残酷すぎる。
そして。ぼんやり意識を保つ為に開いていた瞼を、睡魔に負けるようにゆっくり閉じていった。
「マヒル!っきろ!」
喉から精一杯かけた声に返答はない。
お前がいなくなった未来を俺は……。
夜は静かだ。春の夜風は少し寒い。
「不適応……ほら、アサヤくんもいくよ」
もう抵抗する気も起きない。
おそらく下のヨイチもマヒルと同じ苦しみを迎えているだろう。近くに綾野がいるとはいえ、独りはもっと苦しく悲しかろうに。
同じく、アサヤのうなじにそれが投与される。
「ぇぁうぇがぁぁぁ!!」
「あ、ふーちゃん。終わった?ヨイチくんもダメだったかそっか」
「んぁああぐっ、らぇああえあ!!」
「警察呼ばれちゃってるし、彼の結果確認したら報告しに帰ろうね」
血が逆流している。血管が膨張している。
肺が裏返っている。心臓が乱調している。
激痛だし気持ち悪いしでどんな声を出していいかもわからない。
二人はこんな苦しみを感じていたのか、大変だったろ。
マヒルの寝顔が霞んでいく。
痛覚が狂って狂って狂って、心は無の境地を迎える。
何も感じなくなって。サインペンで塗りつぶすように暗転していく。
白い部分がなくなったとき瞼は閉じてしまう。
走馬燈は見えない。
ああ。人生を語るには短いが、十分充実していた人生だった。
男に生まれるは凶だと世間は言うけれど、彼らがいるなら俺は男で良かった。
そして、帳が下りる。
「えっ」
この場を離れようと制服を着始めていた中条は慮外な出来事に目を丸くする。
視界の端に人影一つ。色褪せた灯が一つ。
もう動くことは無理であろうはずの、アサヤが立ち上がっていた。
「ごめん二人とも、やっぱりあの子に、任しておけばよかった。気持ちだけじゃ何も、できない」
劇痛に呑まれ虚ろにフラフラしながらアサヤは中条へ語りかける。意識はほぼなく、思考もしていない生命の残滓だった。
どうして。中条は彼の生命力におののく。
投与後の反応を見るに不適応だと思われる。体の中身は鼠に喰い荒らされたような痛みが走ってるはずなのに。
ぽたぽたと散弾を抱えた際にできた傷から血を滴らせてアサヤは続ける。
「願いがあるから傷が生まれ、傷があるから願いが生まれ、心に宿る光や影が幸せを形作っていくんです」
彼の語り始めに呼応する中条の傷。
制服とリヴで隠していた彼女の醜い背中の傷が幸せとは何かを問う。
背中の傷を見せたくないのに、背中を出さないと戦えない彼女。
「作られるのは美徳なものだけじゃない」
そうだ。分かっているからそれ以上言わないで。
着替えの途中のままアサヤへ歩み寄る中条は、背中の傷を隠すように生えたニ本のケーブルの先端をアサヤへ狙い定めた。ふーちゃんという個体も彼女の左肩から小さく生えて、いつでも射撃用意はできている。
向けられた銃口に気付くこともしなくなった彼は細る声で問いかける。
「先輩の幸せは、強くて明るくて暖かいものですか?」
他人の粗を探し、貶し、蹴落とす行為に幸せを感じてはいないか。
過剰な欲に溺れ、欲のままに動かされる衝動を幸せとしていないか。
自身の不満を理解してもらい内にある悪や孤独を薄めようとする幸せを生きがいにしていないか。
振り返った時、弱くて暗くて冷たい幸せが形作られてはいないか。
君の問は理解した。そして答えも決まっている。
そんな幸せに抗う為に私は。
「…………君に語ることは何もないよ。私は、私を救う為にここにいる」
強く靡くことのないその言葉にアサヤは目を丸くした後、微笑んだ。
体内は燃えるように熱く、零れ落ちる血液も沸騰してように傷口を煮立たせる。
立っているのもやっと、だが片膝をついても歩き続けた。
彼は靴の裏を擦るように目の前の中条へ近づく。一歩ずつ次は倒れないように。
「自分も救えない弱い人間に私は成り果てない。君の自己犠牲は偽善だよ」
「そうかも、でも死ぬなら救助死でしょう。事故死や病死で死ぬよりも」
進めていた足が思ったように動かず案の定転びかける。
腕を掴んで転ばぬように支えてくれたのは中条だった。自重に負けそうだったがおかげで軽くなった。
彼女に戦闘の意思はなくなっており、強く非難していても最期に耳を傾けてくれているようだった。
「自分で救いようなくしたなら、傷は自分独りで背負ってくださいよ」
「…………ごめんね。願いが叶ったら、私の身で罪滅ぼしをする」
「何とも身勝手ですね」
自らの足で立ったアサヤは、支えてくれた中条の手を取り、じっと見る。
春夜が彼女の手を冷たくする。それでもアサヤの手は暖かい。
彼女の未来を捨てでも叶えたい願いを知りたかった。
才能のあるマヒルとヨイチをサポートしたかった。
もっと沢山の人の役に立ちたかった。
「俺は先輩を許します」
彼女の指を人差し指だけ残して折り畳ませ、手首を反らせる。
「だから、俺の身勝手も許してください」
手首を丁寧に元に戻し、自身の心臓に向けたアサヤ。
その瞬間。中条の左肩、銃口から射出した近距離の弾丸が彼の心臓を的確に貫通した。
抵抗小さく貫き空いた小さな穴は、身体への反動を抑え、アサヤは立ったまま死を迎えた。
即死だった。
◆◆◆
「誰の金で生活できてると思ってるの?」
母の口癖だった。
気に食わない事がある度、そう口にしては父と私を黙らせていた。
でも私たちは別に母に反抗したことなど一度もなかったのだけど、もしかしたらそんな目や表情をしてしまっていたのかもしれない。
中条家は母、父、私の三人家族。
ひょろひょろに痩せている父はほぼ専業主夫として、私の手伝いがあるとはいえ家事全般をこなし、母を見送ってから帰ってくるまでの間でパートをこなす。痩せている原因が明らかな程に身体を酷使していた。
私の遺伝元でもある長くストレート髪の母は警察官であり、詳しくは知らないがそこそこの階級を担っていたようだ。夜中や非番での急な出勤もしばしば。
美人な容姿と器用にタスクをこなす優秀さを展示する外面とは対照的に、家での内弁慶さは常軌を逸しており、物心ついてからは家庭内暴力で父の全身に青痣や頭部のぱっくり開いた傷を付けていた。
父を助ける為に目指していた夢の為に勉強やトレーニングをしていたことで、自分で言うのも何だが、学績は優秀で。それを逐一報告させられていたからか、母が私を家庭内暴力のターゲットとすることはあまりなかった。
今思えば、父が気付かないところで母の矛先を買ってくれていたのだろう。
腕力もリヴもない父は、反撃することも弱音を吐くこともなくそれに耐え続け、私を高校生まで育てた。
中学の創立記念日だったような、母が仕事に行き、父と昼食を食べに出かけたある日。
それまで聞くタイミングがなく気になっていたことを単刀直入に父に聞いたことがあった。
「お母さんと離婚しようと思わないの?」
「ん?お母さんが嫌いになっちゃった?」
「いや、そうじゃないんだけど……。料理も選択も掃除もパートもやらされて、あんなに暴力も振られて、亭主関白が嫌になったりしないのかなって。嫌だったら離婚したっていいんだよ?私はお父さんについていくし……」
箸を止め、両手を膝に載せて俯く私。
父は熱々のハンバーグを口に頬張って、娘の言葉も一緒に嚙み砕き、飲み込むと答えた。
「優しい子に育ったなー、ありがとう。でも僕は離婚しようなんて考えたこと一度もないよ」
「え、なんで?」
「お母さんが好きだから。紗旗のことも勿論好き。僕は三人で一緒にいたいんだよ」
正直すべてを理解できなかった。
好きがから一緒にいたいって気持ちは理解できるが、暴力を受けてもそれでも一緒にいたいって思うものなのかは今でも疑問に残っている。
今度は少しムッとした表情で父は続けた。
「ただ、今以上に紗旗に手を出すなら怒る。お母さんの味方でもあるけど、紗旗の味方でもあるから。どうしてもお母さんと一緒にいるの辛くなったら、その時は一緒に出て行こうか」
言い切った後ニコリと笑った父に、私はうんと頷き、少し泣いてしまった。
私は夢を叶える志を強くした。
問題なく志望校の葉柄高校にも合格し、環境変わらず過ぎて行った高校二年生の五月。
───テストの結果が学年十三位だった。
別に勉強をサボっていたわけでも、遊びに現を抜かしていたわけでもない。各教科の担当教師が変わったことで問題の出題傾向や雰囲気がガラッと変わり、終始適応できなかった。加えて、進路を考え始めた他の生徒たちが追い上げてきたことも大きかった。
小学生のころから一桁の成績に慣れてしまっていた母は、その成績表に激昂し、平手で殴りつけ。
続けて、机の上にあったリモコンを握ると大きく振りかぶった。
「止めて!」
父は私を庇うようにその硬い攻撃を後頭部で受けてしまう。うっと痛覚に唸るも身体を翻した父はペチンと母に平手打ちをした。
目を覚ましてほしい、本気ではない一撃に母は困惑でフリーズしてしまっていた。
父は言う。
「紗旗は暴力を奮わなくても、失敗を顧みて次に成功に繋げることができる子だ。あなたの子だ、当然だろう!」
「…………男のくせに調子に乗るなよ───誰の金で生活できてると思ってるの?私の言うことだけ聞いて生きていればいいのよ!」
「紗旗!今日はお友達の家に泊めてもらいな、お母さんは僕が何とかするから!」
「う、うん」
追いかけようとする母をホールドして抑える父を背中に、私は学校のカバンだけ掴んで外に出た。
私の、私のせいで。心臓の鼓動が速い。全力疾走だけではない、父を見捨ててしまった罪悪感と家族にできた亀裂を修復する未来が見えない絶望感とがごちゃ混ぜになっている。
その夜は友人に事情を説明して泊めてもらい、翌日の学校では制服を持ってくるのを忘れた為、ジャージで一日を過ごした。
「よし」
学校を終えるとちゃんと母と父に謝ろうと意を決して帰宅。しかし、おかえりの声は聞こえなかった。
家の中は昨日の事が嘘だと言わんばかりに荒れた様子もなく綺麗に掃除されていたが、父の姿はない。
財布や携帯、靴もないしパートが長引いているのだろう。メッセージアプリに連絡だけ入れて父を待った。
次に帰ってきたのは母だった。
母の帰宅時間が近づいてきて、咄嗟にコンビニで弁当を買ってきたのは正解だったようだ。
リビングへ入ってきた母と対面。上半身を九十度曲げて心から謝罪をした。
悪い成績をとってしまい申し訳ございません。次回からは必ず上位に入ります、と。成績が落ちた原因は屁理屈にしか聞こえないので省き。
無反応に恐怖し顔をあげると、怒りは収まっていなかったようで、一発拳で殴られた。
意識は深く沈んだ。
その日からは地獄だった。父は帰ってこなかった。
母も行方を知らず、メッセージアプリは未読のまま。
父が担当していた家事全般はすべて私の担当に割り当てられるし、家庭内暴力の標的も全て私に移るし。
勉強に費やしていた時間は家事に殆ど削られたが、睡眠時間を減らして成績上位をキープを強いられ。学校の友人との付き合いも悪くなり。
家事に体力を持っていかれた身体に対し、母は拳を振るい、背中から生える私のリヴを根本からもぐこともあった。
皮膚ごと剝がされる痛みや痣の恒常的な痛みが蓄積していき、精神はどんどん狂い始めていく。
家事と勉学を両立することに慣れてきた数ヶ月経った頃。
やっと自分の夢を思い出す時間があった。私の夢は何だったっけ───あぁ、苦しくも母と同じ警察官だ。
ただもう、助ける父もいないし、身も心もボロボロだ───夢を追いかける理由がなくなってしまった。
…………もういいかな。
夢を諦めてから、父に対する想いが頭をグルグル巡回するようになった。
ついに母に嫌気がさしてしまったのだろう、気持ちはよくわかる。こんなボロボロでずっと私のことを守ってきたんだね。
でも、どうして父は私を置いて家を出て行ったのだろう。私の味方ではなかったのか。
父がいなくなってから、母は外面にもにじみ出てしまうくらい益々狂ってきていた。
父の存在が母にとってどれだけ大きい部分を占めていたか、無自覚にも現れていた。
高校二年生の三月。
二年生最後の期末テスト、モチベーションを失った私は二十位を取った。これは紛れもなく勉強不足によるもの。
成績表をいつも通り母に提示すると、憤怒にも悲愴にも見える表情を見せ、これまたいつも通り鼻血が出るほどの平手打ちを何回も食らった。
理不尽に対してメンタルが決壊しかけていた私は、脳内が応酬に溢れ、平手打ちを返してしまう。
「っ!!」
頬を触る母は私の顔を見て驚愕し、あの日と同じようにフリーズしてしまった。
あぁ、またボコボコにされるのだろうな。その考えとは裏腹に。
母はのらりくらりとソファの方へ歩いていく。
「?」
母の憔悴しきった背中に亭主関白としての威厳はもうなくなっており。
新鮮な空気を吸う為か、ガラス戸をガラッと開けると、不器用に躊躇なくずるりと。
ベランダから落下していった。
お読み頂きありがとうございました。
ご感想・ご指摘お待ちしております。




