5 蜂の話・後
疑似排泄を匂わせる描写があります。具体的な描写はありません。
ひゅ、と喉が鳴って目が覚める。身体に触れているのがやわらかな布地で、目に映るのが化け物蜂ではなく見慣れた自室であることを、身体はともかく精神が理解するまでにひどく時間がかかった。全部が夢だったらいいのにな、と思ったが、当然そんなわけはない。全身が重だるいし、着衣が青いパイナップルのワッペンの付いたTシャツに着替えさせられているし、何より白縫さんがいる。ちゃぶ台もといミニテーブルについて足を伸ばして、カーテンの隙間から差し込む陽光に照らされてすっかりリラックスしている様だ。テーブルに置かれたマグカップに至っては見覚えがないもので、勝手に持ち込んだのだろうと思った。
「おはよー、ございます……」
ごろり、寝返りを打って身体ごと白縫さんの方を向く。起き上がろうかとも思ったけれど顔に触れる空気がひんやりしていて、今は布団から出たくなかった。声がかすれているのはエアコンの効かせすぎだけではなくて、きっとあの時に喉が潰れるくらい叫んだせいだ。白縫さんが吸い飲みを口元に差し出してくれたので、遠慮なく吸い付く。中身はほとんど常温のスポーツドリンクだった。少しばかり喉に染みるそれをゆっくり2杯飲み干して、ようやく人心地着く。この吸い飲みがどこから出てきたのかは、この際考えないことにした。
「あー、俺、また死んでたんですか?」
「聞きたい?」
いかにも「言いたくないんだけどなぁ」といった風情の顔をしているのが逆に気を引く。いいから、と頷けば、「お腹の中に卵がぎっしり」とだけ返ってきた。……聞かなければよかった。
「一緒に治しといたから大丈夫だと思うよ」
白縫さんの目も心なしか同情の色が強い。「持って帰られる前に見つけられてよかった」という呟きは、怖すぎたので聞こえなかったことにした。一体どこに持って帰られそうになっていたんだろうか。
「レトルトのだけどおじや、買ってきたから食べられそうだったら食べたほうがいいよ。起きられる?」
「いつもありがとうございます……」
「いいってことよ」
片肘をついて身体を起こす。勢いを付けようと足を畳んだとき、腹の中で、ずるりと何かが動いた。
「っあ!?」
思わず腹をかばってベッドに逆戻りする。白縫さんが俺の名前を叫んで駆け寄ってくる。
「何、どうしたの?」
「お腹、お腹になんか……あります」
白縫さんは綺麗な顔の真ん中、眉根にしわを寄せて険しい顔をした。
「ちょっと見せて。服めくってもいい?」
がくがくうなずく。白縫さんは毛布の中に頭を突っ込んで、俺のTシャツをたくし上げた。露出した肌をゆっくりさする手が思いのほか大きいとか、そういうことを気にする前にもう一度蠢きを感じてまた変な声が出る。
「……取りこぼしがあったみたいだ。もう少し触るね」
今度は強めに、中身の何かを動かすように手を揺さぶる。広げた指の間に何かが引っかかって、またずるずる動く。
「あのっ、これ、何、どうなって」
「治す時に全部綺麗にしたと思ったんだけど、卵がまだ残ってる。多分腸の中に納まってるから、自然に出てくるかもしれないけど……」
「へ……? 無理、むりですよそんなの!」
この異物感を耐えきるのは無理だ。腹が重くて身体を起こせない。それに、これだけの大きさのものが自然になんて出てくるわけがない。胃が圧迫されているような気すらして、気持ちが悪くなってきた。
ぐずる俺の服を簡単に直して、白縫さんが顔を出す。
「虫下しを用意するから、しばらく待ってて」
あわただしげに部屋を出ていこうとする白縫さんの袖を、俺は思わず掴んで引き留めた。だって一人は心細い。ここに一人で寝ている間に、腹の中の卵が孵って蜂の子供が動き出して、俺の腹を喰い破って出てくるかもしれないのに。行かないで、と口に出した言葉は、自分で聞いても子供じみていて恥ずかしかったけれど、声を小さくしてもう一度繰り返す。いかないで、しらぬいさん。
「わかった、わかったから……泣かないでよ、ぼくのミスなのに」
*
白縫さんは俺を毛布でくるみ直して、抱え上げて膝の上に乗せた。ぐずる俺にお粥をパウチから一口づつ食べさせて、丸めた背中を撫でて顔を拭いた。ゆっくり揺すぶりながら子守唄を歌ってもらったような気もする。気もする、というのは、途中から騒ぎ疲れた俺がほとんど夢うつつだったからだ。だから当然、薬を飲ませてもらったのもぼんやりとしか覚えていない。小さなコップで苦い汁を飲まされて、その苦さを嫌がって首を振ったところに今度は甘いものを含まされた覚えがある。そのまままぶたを押し下げられて、しばらく眠った。
目が覚めても相変わらず俺は白縫さんに抱かれたままだった。冷房の設定温度は上げられていて、更に毛布と白縫さんに二重に包まれているので、少し暑かった。睡眠の効能だろうか、すっかり正気を取り戻した俺は数時間前のあまりの醜態を思い出してしばらく寝たふりをしていたのだけれど、白縫さんはなぜか気付いて顔のところの毛布を避けてくれた。
「おはよう。よく寝てたね」
顔の前に俺のスマホを出してくれる。時間は16時。5時間ほど眠っていたようだ。
「そろそろ薬が効いてきたと思うけど、どうだろう。お腹痛い?」
腹側に回ってきた手が、丸まっていた身体をほぐすようにゆっくりと撫でる。それに呼応するように、内臓がぐぎゅ、と音を立てた。頬が熱くなる。
「ちょ、ちょっと、やめてください」
「ああよかった、じゃあ後は出すだけだね」
こともなげにそう言って、白縫さんが俺を抱いたまま立ち上がる。少し遅れて、非常にまずい流れになっていることに気付いた。このままだと白縫さんが一緒についてきてしまう。何なら最中に横で介添えされそうだ、白縫さんならやりかねない。
俺は暴れた。大いに暴れた。子どものころ、欲しいおもちゃを買ってもらえなかった時でもこんなに暴れたことはないというくらいに手足を振り回した。根負けして俺を床に立たせてくれた白縫さんは、「治す時に未消化物は全部避けて取り除いているし、これは医療行為だから恥ずかしくない」という旨のことを熱弁していたが、そういう問題ではないと思う。俺にも人並の羞恥心があるのだ。いくらなんでも下着を下ろしているところを見せるのは嫌すぎて、俺は白縫さんに俺のベッドで待っていることを厳命して腹を抑えながらユニットバスに駆けこんだ。水を流しっぱなしにして、ついでにシャワーも流して音消しの足しにする。
「お腹空いてるのってそういうことなんだ……」
便器に腰かけているときは妙な考えが浮かびやすいものだ。改めて、白縫さんが俺のことを毎度毎度修繕してくれているのだということを実感する。それにおそらく人智を越えた力が用いられていることも。彼がどうしてそんなことをしているのかは、全然わからない。いや、薄々わかるような気もするけれど、こんなに疲れている時にこれ以上ややこしいことを考えたくはなかった。
出際にちらりと見た便器の中にも血が飛び散っているとか虫が這っているとかそんなことはなくて、俺は一山を越えたような気持ちになって安心した。
*
最後にもう一度ダメ押しのように水を流して、手をよく洗って部屋に戻ろうとすると、白縫さんが廊下のレンジの前で何やらごそごそとやっていた。いやベッドにいろって言ったじゃん、と思ったが、手元を見るとお粥のパウチが開封されている。さっきは十倍粥、今度のは全粥だ。そこに卵を落として混ぜて、レンジに入れて白縫さんは振り返った。
「体力使っただろうから今日はもうゆっくり休んでたほうがいいよ。ご飯を食べたら整腸剤も飲んでね、そのままにしてると薬で荒れちゃう」
「わかりました……」
肩を押されてベッドへ逆戻りだ。膝から下に毛布を掛けられて、白湯の入ったマグカップを持たされる。脇に落ちていたスマホを拾い上げて、通知を見たときにあっヤバいと思った。今日もバイトだ。そろそろ家を出ないと、開店の15分前には間に合わない。
そろそろとベッドを抜け出そうとしたとき、今度はお粥のお椀を持った白縫さんが戻ってきた。
「春久くん?どこ行くの?」
顔は笑顔だが目が笑っていない。思わず後ずさって、膝の裏にマットレスの端が当たる。
「や、今日もバイトで……そろそろ行かなきゃと思って」
「今日はだめに決まってるでしょ。今の君はほとんど病人なんだよ? お休み取らせてもらいなさい」
「いや、でも急には」
「じゃあ僕が代わりに行ってくるから」
それはどうなの、と今度は俺が熱弁したけれど、白縫さんは諦めなかった。ベッドの中から店主の井上さんにLINEで『体調不良で休みます。代わりに友人が行きます』と送らされてげんなりしている俺を尻目に、白縫さんは意気揚々と出かけていった。なんだか嫌な予感がした。
*
手持ち無沙汰に積んでいた参考書をパラパラめくる。最近はがちがちの理系の学部でなくてもプログラミングをやらされることが多い。後期の必修授業になっているのを知って、近所の古本屋で買ってきたものだ。ドラマか何かを見ても良かったが、サブスクの選択画面には急にホラー映画のサムネイルが出ることがあるからあまり使わないようにしているのだ。
枕元に置いたスポーツドリンクのペットボトルの残りが半分を切って、参考書が2冊目に入ったころにスマートフォンが振動した。井上さんからだ。通知を見ると、何やら画像が送られてきているようだった。
続けて細長い通知バーに表示された文字列は、『春くんの友達面白いね~』。それで大体の予想がついた。LINEを開けば、そこにはおちょこを掲げた白縫さんと店員一同、それに常連のお客様が何人か。早めに店を閉めて、貸し切りの飲み会に移行したらしい。どうやら馬が合ってしまったようだ。井上さんは面白い人間が大好きなのだ。
白縫さんがどんどん俺の生活に浸食してきているような気がする。それがいいのか悪いのかは全然わからなくて、ただ妙に複雑な気持ちになりながら俺はスマートフォンを枕の上に放り投げた。