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4 蜂の話・前

 久しぶりに白縫さんの姿を見ない一日だった。最近は大体日に一回は顔を合わせる。それは暇つぶしに入ったカフェだったり、帰りに寄ったコンビニだったり、あるいはもっと単純に帰り道で行き合わせたりする。家に上がり込んでいたことも数回あった。合鍵を渡したことを後悔しなくもなかったが、一度渡してしまったものはしょうがない。俺の負けだ。それにしても、あの人は一体何の仕事をしているんだろうか?


 白縫さんがいなくても、俺の一日は変わらない。大学に行って授業を受けて、バイトが終わったら課題に追われる。夏休みが待ち遠しいけれど、休暇に入ったら入ったでやることがなくなってバイトのない日は一日家で寝ているだけになってしまうかもしれない。今もそのルーティンに則って居酒屋でバイトをした帰り道だ。俺のバイト先であるところの「呑み処 ねこだまし」は学生街の大通りには珍しい個人経営の店で、酒は安いし料理が美味い。大学の関係者にも常連が多い、アットホームな居酒屋だ。何と言っても賄いが――それも飛び切りおいしいのが出るのが大きい。店主もそれを承知で、実家を出ている学生を中心にアルバイトを募集している。アパートからは少し歩くが、それを除けば最高のバイト先だ。


 今日の賄いはもつ煮丼だった。小どんぶりに麦飯をよそって、上からこってりした味噌だれのもつ煮を掛ける。最後に小葱と温泉卵を割って完成だ。賄いとはいうものの、常連客の中にはわざわざこれを注文する人もいるくらい人気のあるメニューだ。「深夜帯になってやることがなくなったらお客さんがいても空いてる席で食べていいよ」とは店主の井上さんの言いつけで、家庭的な店の雰囲気だからこそ許されていることだろう。今日はそうして賄いを食べていたら、お客さんの一人が日本酒も一杯おごってくれた。


 ほろ酔い気分で夜道を歩くのは楽しい。大通りから一本裏に入った細い通りの店は、ほとんどが暖簾を下ろしてしまっているが、それでもところどころに看板が光っている。蒸す季節になってきたが、夜風の中にはたまに涼しい塊みたいなものがあって、身体に吹いてくる中にそういうのが混ざっていると気持ちがいい。歩きつつ片手でスマートフォンを見ると、もう日付を回ってしばらく経っていた。このままいけば5分ほどで家についてしまうが、今はもう少し歩いていたい気分だ。そう思って、右へ曲がって細い路地を通り抜ける。ここも確か飲み屋が多い通りだったはずで、案の定路地の全体が夕暮れ時のように赤めいて明るかった。


 ――夕暮れ時のように?


 悪寒を覚えて身震いをする。辺りを見回せば、どこもかしこもシャッターが下りている。人はどこにもいない。夜が来る前のほんのわずかな時間にしか見られない色合いが空間を満たして、建物に反射している。間違いなく、「いつものやつ」だった。油断した。夜中の、それも酒に酔った帰路なんて、怖い話の舞台の鉄板だ。


 思わず走り出す。どこから何が襲ってくるのか全く予想が付かないから避けようもないのだが、とにかくこの場にいたくなかった。酔いはとっくに醒めて、もつ煮丼の米が胃の中で重く揺れている。行っても行っても道は途切れない。この通りは途中でもう一本の通りと合流して、その先は駅のロータリーに繋がっているはずなのに。


 5分ほど走り続けて、息が切れていったん足を止めた。膝に手をついて息を整える。周りの建物もいつの間にか見慣れないものになっているし、何なら看板の文字が読めない。日本語や英語ではなく、のたくった線や模様のようなものが本来店の名前が書かれるような空間を埋め尽くしている。少しの後悔を覚えたけれど、逃げなければそれはそれであの場でひどい目に遭っていただけだろう。


 何とかしてここから抜け出さなければならない。軽く屈伸をして、もう一度走り出そうとしたとき、後ろから突風が吹いて足を取られた。前につんのめって転ぶ。頭を打たないように腕で支えたのが功をそうして、すぐに脚を畳んで身体を起こすことができた。立ち上がろうとした背中に、何かが触れる。固くて重いものだ。


 節のある足が器用に俺の身体をひっくり返した。


 蜂だ。大きな、俺と同じくらいの大きさの蜂。黒い身体が夕日を反射してびかびかと光っている。蜜蜂やスズメバチとは違う種類のように見える……怪異に実際の種類が関係あるのかはわからないけれど。


 腕を振り回して追い払おうとするが、顔の前でがちがちと口器を噛み鳴らされて身がすくんだ。前足が肩口を、後ろの方の足4本は腹を押さえている。思ったよりすっきりとした腹が、ぐいっと持ち上がって括れているところで大きく曲がった。その先端に太い管のようなものが生えていて、器用に俺の腹をぐいぐい押した。


「ひっ、」


 その後に起こることを想像してしまう。あれは毒針だ。スズメバチに刺された人が倒れて搬送される、みたいなニュースを毎年見るが、あの針で、しかも腹を刺されたりしたら、きっとすごく痛い。身体が大きいということは、一度に入ってくる毒の量も多いはずだ。毒が効く前に腹の中身をぐちゃぐちゃにされてショック死するか、毒でじわじわ死ぬかの二択。このどちらかしか選べないなら、ショック死の方がまだマシだろうか? 考えているうちに、それが柔い皮膚を突き破ってずぶずぶと下腹に沈んだ。


「がっ、あ、ぁあ、んぎ……ッ!」


 太いものを腹の中に刺し込まれて、時々びくびくと震えるように動かされている。その先から内臓にひっかけるみたいに、じわじわと冷たいものを流し込まれている、気がする。毒液なのだろうか。痛みも過ぎれば何も感じなくなってくるようで、胸から下の、腹の中身の感覚がほとんどなくなってきた。ただ皮膚のひきつれる痛みと、異物感だけがある。いやいやをするように振った頭を、右の前足を添えられて止められて、逸らせなくなった視線で俺はとんでもなく気持ちの悪いものを目にした。


 固い殻に、人の顔が浮かび上がっている。質感は蜂の外骨格のまま、生気のない目鼻と口の陰影のみがそこにあるのだ。小学生の時、美術の教科書に載っていたデスマスクのレリーフを思い出した。目を閉じて口を半開きにしたその顔をみんな怖がって、隣の席の女の子はそのページを糊で貼り付けてしまって先生に叱られていた。なんでそんなものを載せていたんだろうか。目を固く閉じたそれの口元が動いている。


「……私のあかちゃん。私にそっくりなあかちゃん。私のあかちゃん。私にそっくりなあかちゃん。私のあかちゃん。私にそっくりなあかちゃん。私の……」


最後に悲鳴を振り絞って、今度こそ綺麗に気絶した。

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