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幕間 白縫さんの一日

「あ」



 火曜の授業は2限だけだ。間に合うように学部棟までやや速足で歩いて、行きがけに廊下の掲示板を覗く。すると、そこには「心理学研究a 本日教授出張のため休講」と張り出されていた。


 心理学研究aは俺が今から受けようとしていた授業だ。おおかた、メールボックスに来ていた休講連絡を見落としていたのだろう。思いもよらず空いた時間ができてしまった。普段なら、2限に出席した後は学食で簡単に丼ものを食べて、午後は図書館で課題を解いて余った時間で自習をすることにしている。家に帰るのは大体夕方6時頃だ。


 何をしようかと考えて、ふと気になっていることがあったのを思い出した。白縫さんのことだ。あの人はよく俺の家に勝手に上がり込んでいて、何なら翌朝まで泊まって俺が大学へ行く途中まで着いてきたりする。なんとなく9時5時の仕事に就いている感じはしないが、かといって金欠というわけでもなくて……むしろあれは金持ちの類に入るのではないかと思う。


 いったいあの人は、昼間は何をしているんだ?


 一度考え始めるとむくむくと好奇心が首をもたげ始める。加えて、今はちょうど学期の中ほどで、課題の量も落ち着いている。今日一日くらい自習をしなくたって大丈夫だ。降って湧いた休暇を、俺は白縫さんの行動調査に費やすことに決めた。



[10:38]


 白縫さんにはキャンバスの中まで着いてこないように言い聞かせている。それでなくても顔立ちが整っているのだから、興味津々の同級生にあることないこと問いただされたり噂されたりしては構わない。したがって、今は学校周辺……おそらくどこかのカフェにいるはずだ。学生街であるのも相まって、このキャンパスの近辺には個人経営のカフェが数多く存在する。ちなみに、世界各国の料理店やチェーンの飲み屋、バーも多い。初めての時こそタリーズに押し込んだが、今はきっと新しい行き先を開拓しているはずだ。


 つい先ほど別れた道から推測して、どこのカフェが一番近いかを割り出す。一店舗目は外れだった。次の店はやや遠いが、広々としたテラス席とボリューミーなケーキセットで有名だ。あまり洒落た店には行かない俺でも名前と看板メニューだけは知っているくらい。


 できるだけ死角になるよう、歩道沿いの壁すれすれを歩いていくと、案の定テラス席に見慣れた姿が座っていた。長い脚を組んでいるのがよく似合っていて、なんとなく腹立たしい。机の上には汗をかいたアイスコーヒーのグラス、手元には見覚えがあるようなないようなの大判の本を持って、くつろぎながら読み進めているようだ。


 何を読んでいるのか気になるが、これ以上近づくとさすがに気付かれそうだ。電柱の後ろまで一時撤退してどうしようかと考えていたら、店の中からカフェエプロンを付けた人が出てきて机に小皿を置いた。注文の品を届けに来たのかと思ったら、その人はそのまま向かいの椅子に掛けて白縫さんに話しかけた。


「お陰で新作のパスタも大人気だったよ、やっぱりぬいちゃんのアドバイスが効いたんだろうねえ。はいこれいつもの、サービスにしとくよ」


「それは良かったです。枝豆はちょうど旬の差し掛かりですしね」


 ……とてつもなくフランクな会話が始まってしまった。ぬいちゃんって何だぬいちゃんって。俺の前では何考えてるのか全然わからないくせに、いくらなんでも地域に溶け込みすぎじゃないか?


「夏にかけてはどういうのがいいかねえ」


「これからどんどん暑くなりますからね、チャイ風味の焼き菓子なんかどうですか?日持ちもするし、シナモンは香りもいいし」


「試作したらまた食べに来てくれるかい?」


「もちろん」


 俺はげっそりしてしゃがみこんだ。もちろん細心の注意を払って、電柱の陰から出ないようにしてだ。ペットカメラで犬の粗相を見る飼主も、もしかするとこんな気持ちなのだろうか。



[14:18]


 白縫さんは先ほどの店員――どうやら店主らしい――としばらく小さな盤のオセロを楽しみ、昼頃からケーキを2つとボロネーゼを注文して、綺麗に完食した。俺も白縫さんが食べている間を見計らってコンビニへ駆け込み、菓子パンを買って電柱の陰でもさもさと食べた。それにしたって白縫さんの食べ方は栄養のことを全然考えていなさそうに見える。


 そうこうしているうちに、2杯目のコーヒーを優雅に飲み干した白縫さんに動きがあった。正確には動いたのは白縫さんではなく、テラス席に面した道を歩いてきた白黒のぶち猫だ。耳の端にカットの入っているのがうかがえるので、どうやら地域猫らしい。その猫は座っている白縫さんの足元に近寄っていき、ぶみゃーと鳴いてすりすり身体を寄せた。


「おや、もうそんな時間かな。マスター、お勘定お願いします」


 白縫さんがシュッと片手を上げると、店主が店内からシュッと飛んできた。彼に黒っぽいカードを渡してしばらく待っている間、白縫さんは猫を目線の高さに抱き上げて何やらうんうんとうなずいていた。……動物と喋れると言われても驚かないというか、この人に関してはそれ以前に不思議なことが多すぎる。あの、千切れた体が治っていくのが、どういう原理でなされているのか俺はまだ知らないのだ。


 カードを返してもらった白縫さんは、店を出ると猫に先導されて歩き始めた。こっちへ来るんじゃないかと思ってひやひやしたが、俺が隠れている路地と交差する道を通っていったのでおそらく無事だ。十分に距離を取って、更に追跡をしていくことにする。


 5分ほど歩いて、俺があの木のようなものに襲われたのとは別の小さな公園に到着した。どうやらここの自治体では、街中の空いたスペースは全部緑化して市民の憩いの場にするとかそういう方針が敷かれているらしい。


 見晴らしが良いのでこれ以上近づけない。スマホのカメラを限界までズームにして、塀の端からレンズだけを出して公園を撮影する。何度かチャレンジしてやっと細かいところまで見える写真が撮れた。……公園の敷地いっぱいに、思い思いの距離感で猫が集まっている。これはあれだ、いわゆる猫の集会というやつだ。野生動物の集まりに混ざっている優男。普通こういうのって人が来ると解散になるものなんじゃないのか。しかも、写真には母猫が子猫の首筋を加えて白縫さんの膝に乗せようとしているところまで映っていた。野生はないのか野生は。


「…………が………な……を……いたら僕に教え……てほしいんだけど」


 途切れ途切れに白縫さんの声が聞こえてくる。どうやら猫たちに何か話しかけているらしい。猫たちもそれに応えるように盛んに鳴きかわしている。まさか、本当に言葉が通じているのだろうか。



[16:45]


 しばらくの間木陰で猫と戯れたり読書の続きをしたりしていた白縫さんは、おやつの時間を過ぎた頃にぶらぶらと散歩を始めた。初めはカフェに戻って軽食を摂ったりするのかと思ったけれど、どうやらそういうわけではなさそうだ。キャンパスの外周を回るように、点在する店を冷やかしながら歩いているように見える。古着屋や古本店、ケーキショップ、花屋といったこじんまりとした穴場をはしごして、最後にたどり着いたのは駅のすぐそばにあるスーパーマーケットだった。俺が普段使っているのもここで、曜日代わりで野菜と肉が安くなるのが学生にはありがたい。せっかくなので今日の買い物も済ませてしまうことにする。


 野菜売り場は広くて見通しが効くので最初に入られたら困ると思ったが、白縫さんはそびえたつ乾物の棚の向こうへ抜けて飲料売り場の方へ向かった。ぎりぎり視界に収まる位置をキープしながら手早く見切り品の野菜を見る。ピーマンときゅうりの半額近くになっているのを籠に入れ、キャベツは半玉と一玉まるごとどちらを買ったらいいかで少し悩んだ。一玉買ったほうがコスパが良いしキャベツは茹でればいくらでも食べられるが、明日明後日と居酒屋のバイトがあって賄いが出る。朝昼だけで消費しきれるかは謎だ。


 短めの長考の末、半玉の方を籠に入れて顔を上げると、白縫さんの姿が見えなくなっていた。しまった、逃がしたか。棚のゾーンは背が高くて見通しが効かないし、一方的に人探しをするのは難しい。それに、それでもし白縫さんが先に俺を見つけたら。一日追いかけていたなんて知られるのは悔しいしなんとなく気恥ずかしい。ここは戦略的撤退あるのみ、と一歩後ろに下がって、すると背中が何かに当たった。


「あっ、すいません」


 反射で謝った俺の肩に、やわらかいものがのしかかってくる。それにもう良く覚えてしまったにおいも。


「奇遇だねえ、春久くん。晩ごはんの買い物?」


 心臓が口から飛び出そうなくらい驚いて、妙な声が出た。周りの目が痛い。いつの間にか背後に移動していた白縫さんが、軽く手を振ってそれらをかき消す。


「い、いつの間に」


「きみが電柱の横でしゃがんでた時から?」


 それは「いつの間に」じゃなくて「いつから」だろ、とツッコみたくなったが、それより初めからバレていたことの恥ずかしさが勝った。顔に熱が上る。きっと情けないくらい赤くなっている頬をつついた白縫さんは、籠の中の赤いシールの貼られた野菜を見て渋い顔をした。


「お金なら払ったげるのに」


「お金だけの問題じゃないんです~フードロスを減らす社会貢献の一種なんです~」


「若者はいいものを食べたほうがいいよ」


 ただより怖いものはないというのが母の教えだ。ただでさえ白縫さんは俺の命の恩人だ、それも複数回にわたる。しかも俺はどうして白縫さんが俺を助けてくれるのかすらはっきりとは知らない。推論はないこともないが、これを直接聞いて、それで白縫さんが俺を助けてくれなくなったらと思うととてもそんなことはできない。この上さらに現金の負担まで掛けるのは怖すぎる。


 ……でもこの人がこういうことを言うと、次から毎回叙々苑の弁当を持ってきたりしそうでそれはそれで嫌だ。


 そうしている間にも白縫さんは値引きシールが貼られた野菜を次々棚に戻して、有機栽培コーナーから俺が普段買っているのの3倍くらいする泥付きのじゃがいもと人参を持ってきていた。何だそのチョイスは。このままだとなし崩しにレジを通されて、あの黒いカードで俺の食費が綺麗に浮いてしまう。……一日中歩き回って熱中症気味だったのかもしれない。俺の結論は。


「……食べてきます?晩飯」


 それを聞いた途端、白縫さんの顔がわかりやすく明るくなった。もしかして図られたのかと気付いた時にはもう遅くて、白縫さんはウキウキで俺の腕から籠を奪っていったのだった。


「ぼくねえ~肉じゃが食べたいな肉じゃが、白滝たっぷりで牛肉のやつ」


「もうおごりならなんでもいいですよ」


「ここダッツ安いでしょ、買い溜めしとこうよ」


「俺の冷凍庫なんですけど……」


「ぼくのにしてあげようか?」


「本当にやめてください、マジで絶対やめて」

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