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3 最初の話

 魘されながら眠っている途中、初めて白縫さんと出会ったときの夢を見た。



 その日は4限が長引いて、俺は5限がなかったからいいものの後が詰まっていた学生たちはみんな文句を言っていた。時間がずれ込んだからだろう、キャンパス内の人影は少ない。この時間に大学にいる学生はみな、教室の中で講義を受けているか自習しているかだ。普段よりも15分ほど遅く校門をくぐって歩く帰途も同じように人気がなくて、つい気が緩んで両耳にイヤホンを付けたまま歩いていたのを覚えている。そのせいで異変に気付くのが遅れたのだから。


 その時は手に持ったiPhoneの画面に流れる新曲の歌詞を眺めているうちに、どうも視界が赤っぽいのに気づいた。初夏のこの頃は日が暮れるのも遅くなって、日没までには後1時間は余裕であるはずだ。にもかかわらず、目元を擦っても赤味が消えない。不思議に思って、俺はやっとここで顔を上げた。


 日が暮れている。


 夕暮れ、という言葉で表していいのか戸惑うような不気味な赤さの光が辺りに帳を下ろしている。最初は長く歩きすぎたのかと思った。ついうっかりして、普段使わないような道を通っているのかと。しかし、周りを見渡せばその推論は崩れ去った。朝に通ったのと変わらない通学路だ。ただ一つ、気持ちの悪い夕暮れだけ。


 人ひとり歩いていないのだって不思議ではない。そもそも学生街で住人には学生が多いのと、飲食店が活気づくのだってもう少し遅い時間だ。犬の散歩をするのだって、この時期なら薄暗くなってからの方が快適なはず。だから不思議なことは何もない。ただの偶然、奇妙なたまたまのはずだった。


 気を取り直して歩き出したその時、突然、背後から大きな声で呼ばれたと思った。そしてすぐに、呼ばれてはいないと思い直した。なぜならその叫びは、意味を成しているようには聞こえなかったからだ。


 近所には小学校もあるし、帰宅途中の子どもだっているはずだ。ふざけているのだろう。そう考えて、しかしいったん振り返ってみた。子どもは得てして急に走り出すし、それでぶつかったら痛いのはお互い様だ。注意をしてやるのも地域住民の務め、そう思って目線をやった先、50mくらいのところに、なんだかよくわからないものがいた。


 黒く、もやもやしていて、下に向けて幅が狭くなる台形のような形。なぜか見ているうちにどんどん嫌な気持ちになってくるようだ。真ん中あたりに妙にはっきりした顔がついていて、子供向けのアニメの女の子のお面がはめ込まれているみたいに見える。再び大きな叫び声が聞こえて、それはどうやら「それ」から発されているようだった。


「何、何だあれ」


 コスプレの不審者? それにしてはシルエットがおかしすぎる。首も腕もなくて、全く人間のそれではない。よしんば骨組みまで組んだ本格派だとして、どうしてそんなことをするのだろうか? 俺が固まっているうちに、それはこちらに向かってきた。


 反射的に走り出す。先へ先へと急ぎながら振り返って見てみると、それはどうやら脚を交互に動かして走ることができないらしい。昔に映画で見たキョンシーを思い出した。それから博物館で見たミイラも。ぐるぐる巻きになっているか、それかもともと脚が1本しかないのだろう。身体をぶるぶる、ぐるぐると振り回しながら、跳ねるようにこちらに近づいてくる。あんな動き方じゃ速度は出ないはずなのに、息が切れるほど走っても距離が離れていかない。なんならどんどん近づいているようにすら見える。


「っうゎっ!」


 観察していたら急に身体が浮いて、次の瞬間全身が地面に叩きつけられた。前を見ていなかったせいで、アスファルトの割れ目に爪先を引っかけたのだ。ここらの地形は緩やかな傾斜になっていて、否応なしにスピードが出て危ない。立ち上がろうとして腕に力を込めて、わずかにお腹を浮かせた瞬間、上からとんでもない重さのものが降ってきて俺は押し潰されながらばき、という音を確かに聞いた。一瞬、めちゃめちゃに痛くなった腰の内側がにわかにすーっと冷たくなっていって、呼吸が苦しくなる。胸の内側の隙間が普段の何倍も小さくなったような気がする。続けて何回も衝撃に襲われて、そこでやっと化け物が俺の身体の上で跳ね回っているのだと理解した。どす、どす、と潰されるたびに身体の骨が折れていく。内臓ももちろんぐちゃぐちゃになっていっているようで、口からよくわからない赤い塊が出てきて喉につっかえた。死に物狂いで吐き出して、こひゅ、と喉が鳴ったのをぼんやり感じているうちにそれは身体の上からいなくなっていたようだった。


 どこへ、と、これで終わったのか、と思うが早いか、目の前にあの顔が飛び込んできた。本当に心臓が止まりそうだった。それは飛び跳ねるのをやめて、横たわって、そしてごろごろと行ったり来たり転がっていた。


 血を塗りたくっているのだ。俺を押し潰して出た汁を、身体中に擦り込んでいる。それがどういった意味を持つのかはまったくわからなくて、ただその黒い身体の真ん中についたデフォルメされた顔が、回転に応じて笑いながら近づいたり遠くなったりするのを見ていることしかできなかった。



 血の気が引いて気絶して、痛みでまたぼんやり覚醒して、を何度か繰り返すうちに、あの化け物はどこかへ行っていた。残されたのは死にかけの俺だけ。


 よくわからない化け物に襲われてここで一人で死ぬんだと思うと、目からぼろぼろ涙の粒が出てきた。痛いのと気持ち悪いのも相まって、全然止まらない。死ぬならせめて実家に帰りたかった。


 そうしてどれくらい経っただろうか。


 横倒しになった視界の目の前に、つやつやしたエナメルのスニーカーが現れた。


 うわ、と嘆息したその靴の持ち主は、しゃがみこんで俺にこう声を掛けたのだ。


「死にたくない?」


 俺の返事は、いや、返事にもなっていない掠れて血の混じった吐息はさぞかし無様だっただろう。でも、彼はそれをちゃんと聞き取ってくれたのだ。


「いいよ、助けてあげる」



「……」


 目が覚めたら寝汗をびっしょりかいていた。除湿に設定したエアコンの風が当たって寒い。白縫さんは俺が寝ているうちに帰ったみたいで、机の上にぴんと張った1000円札と「おみまいです。ご飯食べてね」と書かれたメモが置かれていた。


 最初の時は気付いたら身体が元通りになって部屋で寝ていて、夢だったのかと思ったけど服だけ新しいものに変わっていたのでやっぱり本当にあったことなのかなと思って、実際の現場に行ってみたけどアスファルトには何の染みも残っていなかったからやっぱり夢オチじゃねえかと思って、みたいなことを繰り返していたけれど、2回目に今度は大きい変な顔の鳥みたいなやつに襲われて全身をついばまれたときにもやっぱり同じ人が来たからじゃあこれもう夢じゃないじゃんと思って名前を聞いたら甘い声で「白縫って呼んでね」と言われた。それが俺たちの知り合った経緯だ。改めて見るとこう、変だ。というかあの人、合鍵がどうとか言ってたのにこれまでも勝手に部屋に入ってるじゃないか。


 今度会ったら問い詰めなきゃ、と思ったとたんに大きな声で腹の虫が鳴いたので、俺は机の野口英世をひっつかんでひとまず腹ごしらえをしに行くことにした。

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