2 公園の話・後
心の中で半ば諦めていたとしても、抵抗の努力をやめてはいけない。まだ自由に動かせる右手でベンチにこびりついた左手を引きはがそうとすると、白い根がぶちぶちと千切れて左手も動かせるようになった。やった、と思ったとたん、右手の甲に違和感を感じる。それは痛痒さだ。
見れば、千切れた根の先がうじゅる、と蠢いて肌の下に潜り込んでいた。もぞもぞと手首の方へ皮下を遡っていく。見た目に気持ち悪いのはもちろん、めりめりと皮と肉が剥がされる感触が辛い。
「ッ植物のくせに動くなよ!」
盛り上がったそこに爪を立ててそれを抉り出そうとする。ぶち、と音を立てて肌が裂けて血が滲み出したのを指先で拭って、まだ逃げようとするそれをつまんで引きずり出す。引きずり出したところで気付いたけれど、他にも何ヵ所か侵入されている。最悪だ。でも植物ならあまり遠くへは動けないはずで、実際根みたいなものも動くのはそんなに早くなかった。まずはこの場を離れて、そこでゆっくりこの気持ち悪いものを取り除く。その後は病院でも何でも行って手当をしてもらえばいい。そこまで考えて走り出そうとする。いや、走り出そうとした。踏み出した足が、がくんとつんのめって重力に耐え切れなかった胴体が前に放り出される。つんとした土の匂いが鼻を突く。
咄嗟に顔と腹をかばった姿勢から、恐る恐る足元に手を伸ばしてみる。案の定というべきか、そこには何重にも細い紐のようなものが絡みついていた。一本一本は細くても、束になるとなかなか千切れない。更に伸ばした指先に、ごつごつとした何かも触れてきた。手首くらいの太さの、動く枝だか根だかが重なるように絡みついてくる。あ、と思ったときには指先と足首を、更にふくらはぎと手首を絡めとられていて、ぎち、とそれが締まった。
「ぐ、ぎ、ううぅ、!」
ばきばきと音を立てて骨が砕かれていく。まずは細い指の骨、次に手首と足首の細い方、太い方はじっくり時間を掛けて念入りに何ヵ所も。肉の中で破片になった骨のかけらが押し潰されてまた肉に刺さっていく。腕と足をまとめられているせいで体勢が中途半端なのも最悪で、激痛に身をよじっただけで脇腹が攣った。これはこれで最悪だ。
早く助けに来てほしいのに。
白縫さんは俺が死ぬか、死に掛けてからしか来ない。
言い換えれば、それは今の俺がまだまだ死なない――死ねないということだ。
使い物にならなくなるまで、まるで見せしめのように壊された手足が太い枝から解放されてだらりと垂れさがる。一発ギャグ・蛸人間のありさまだ。あちこちから血が出ている。木肌の擦り傷も、内からの切り傷も。その傷口に、ぴとりと例の根が張り付いた。けぶるように湿った冷たいそれが傷口を這い回るたび、びりびりと鮮烈な苦痛に襲われる。根の先端が網のように細かく分かれて、傷口を覆うように広がって癒着していく。
吸われている。
吸い上げられているのが物理的な体液なのかそれとももっと概念に近い生命エネルギーか何かなのか、よく見えなくてわからない。わかるのはちゅうちゅうと啜られているところの痛痒さ。だんだんと背筋が妙に冷えてきて、ぼわんぼわん大雑把な耳鳴りが頭に響いて、そしてある一点で、唐突に意識の連続性が途絶えた。
*
気付いたら自分の部屋だった。紺色のシーツに水色の枕カバー。
いや、違うところがひとつだけ。
「おはよう春久くん。今回は意識がなかったしなかなか起きなかったから、こっちで勝手に済ませておいたよ。今は夜の9時半」
――白縫さんが我が物顔でローテーブルに陣取っている。
「……どうやって」
声を出したら喉が酷く乾いて掠れた。手振りで白縫さんに飲み物を要求すれば、手元のペットボトルをすっと差し出される。よく汗をかいたスポーツドリンクの、手に馴染む丸いボトルを両手の中で転がして改めて問う。
「どうやって入ったんですか?」
「やだなあ忘れちゃったの?春久くんが鍵、出してくれたんでしょ」
「……」
そんなことをした記憶が全くないのだが、人の善意を疑うのもよくないよな……と思い直した。白縫さんがそう言うならそうなのだろう。それに、これまでも家へと戻されていたのだから、俺が白縫さんがこの部屋にいるところを見るのが初めてなだけで、これまでもこうやってこの人はこの部屋に入っていたのだとも思う。
「ねえ、ぼくいいこと思いついちゃったんだけど。合鍵を作ってぼくが一本持っておくのはどう?」
「あ~、大家さんから許可が出たらいいですよ……」
体力が普段の半分くらいになっているような気がする。身体が酷くだるくて重い。適当に返事をしながら再び意識が沈んでいくのを、まぶたの上を軽く撫でる指先が後押ししていく。
とにかく今はただ眠りたかった。