極楽鳥のあし
「『丸の内サディスティック』?」
わたしの呟きに彼女は少し意外そうな顔をしたあと、そっと薄く笑顔を見せた。
「そう。加藤さん知ってるんだ」
「まあ、有名な曲だからね」
彼女との個人的なやりとりをしたのは、それが最初だった。
四月の二週目。まだ入学したてで慣れない高校の校舎を彷徨いつつ辿り着いた自習室で、わたしはわたしの一つ前の出席番号を持つ奥寺静子に偶然遭遇した。
そんな彼女のイヤホンから漏れ聞こえる曲を理解した途端、わたしはにわかに彼女に少しの興味が湧いた。自習室で澄ました顔で勉強をしながら『丸の内サディスティック』を聴くような女子高生を、わたしは寡聞にして知らない。
丁度空いていた奥寺静子の隣の席に腰を下ろしながら、わたしは話題を続ける。
「奥寺さんって、椎名林檎好きなの?」
「椎名林檎がっていうよりは、曲が好きかな」
「作者より作品が気になるタイプ?」
「そう、だね」
いきなり喋り掛けてきて、そのまま隣に居座り続けるわたしを、彼女は特に嫌がるでもなくイヤホンを耳から外しながら淡々と受け入れる。
わたしたちは自習室で隣同士の席に座りながら密やかに会話を交わした。今喋らなければならないような話題ではないと思うこと無かれ。こういうことは今喋らなければ確実に鮮度を失うのだ。
とりあえず二人の共通認識として、『丸の内サディスティック』は最初に聴いたときその歌詞が難解すぎて各自勝手に歌詞の解釈をする、というのがあった。
「リッケン620って、最初わたし栄養ドリンクかと思ったんだ。リポビタンDとかオロナミンCみたいな。疲れてるから頂戴って」
「私は精神安定剤みたいな、薬かなって思ったよ。だいたい加藤さんと同じ意味合いだけど、もっと錠剤みたいな、より強い感じ。薬局で処方されるような」
「リッケンって聞き慣れないから何かの専門用語かと思うよね。まあ、ある意味専門用語だったけれど。そのあとの19万は給料かなって。ほら、最初に“報酬は”って歌ってるから」
「私はその時に自由になるお金が19万も無いって意味かと思ってたな。極端だけど、貯金が19万も無いってことかと」
「なるほど。ああ、あとマーシャルは煙草の銘柄で、主人公はそれ吸ってるのかなって考えた。わたしのなかで煙草を吸う女性って蓮っ葉で少し格好いいイメージだから。そんな感じで」
「私は香水の名前かと思った。シャネルみたいな。お洒落で、高級な香水っぽい名詞だなって」
確かに。匂いと一口に書いてあってもその解釈はいくつもある。どちらの匂いも、勝手な想像だけれど丸の内で働く女性にはよく似合うアイテムだと思った。どちらも違ったけれど。
そしてその匂いで飛ぶ、と表現しているのに二人ともそのものずばりのやばい類は思い浮かべてはいなかった。不思議なものだ。
「わたし、ラットってまさに職人的な専門道具だと。その腕だけでやってるって感じの職人気質的な矜持のある女性というか。まさか鼠じゃないよなーって」
「私はラットってlotの発音違いかもって。運だけが自分の武器って意味で」
へー、と思う。
ちなみにわたしはベンジーとグレッチは知っていた。主にミッシェル関連で。なので殴たれるならテレキャスが良い。いや、殴たれたくはないけれど一応希望を出せるなら。
というか、あの人はテレキャスでなんて絶対殴たないと思うけれど。テレキャスが傷つくから。ちなみに彼女にテレキャスってなんだと思う? と訊ねたら、「ツイキャスみたいなもの?」と返ってきた。
自習室に予鈴が鳴り響いてきた。
「それじゃあ、今度加藤さんのお気に入りの曲も教えて」
「いいよ」
そんな感じでわたしたちの自習室での会話は幕を閉じた。
わたしの一つ前の出席番号を持つ奥寺静子は、身長一六五センチの痩せ型。色白でやや癖毛の黒髪ロングで目は一重。いつも楕円形の眼鏡を掛けているので見えづらいが、鼻の周辺に薄くそばかすが散っているのが特徴的といえば特徴的だった。学業の成績は優秀、運動は普通。もっぱら静かに教室の端で本を読んでいるような、自身の名前からも見た目からもそんなイメージを持たれるような人物だった。
それからわたしたちは入学したてで席がまだ出席番号順なのをいいことに、前後でよくお喋りを楽しんだ。
「『バックトゥザフューチャー』の、2だったかな。そこで過去に二重に来た主人公が、1でもあった自分の父親が母親を助けるシーンを別角度から見て言う台詞が好きなんだよね」
「あれかな。未来を変えてしまう、例の本を取り返しに忍び込んだ部屋で窓越しにそのシーンを見ているやつ」
「そう、それ」
わたしたちはなんとなく声を揃える準備をする。
「『何度見ても良いシーンだ』」
「『やっぱり格好いいな』」
あれ? とお互い顔を見合わせる。
「……もしかして、翻訳違い?」
「たぶん、そうなのかも」
わたしは思い当たる可能性を口にした。有名作品には実は複数翻訳があったりする。翻訳にも著作権があるので、テレビ放映権などに関係して局違いだとややこしい権利の発生やら制約やらがあるのだ。
なのでわたしと奥寺静子の記憶の中にある『バックトゥザフューチャー』内の台詞が違うのはその所為ではないのだろうか。
「なんか不思議。人によって翻訳が違うって」
目の前の彼女がぼそりと言う。
同じ台詞なのにね。解釈の違いなのかな。
「多分声優さんも違うと思うよ」
わたしがそう言うと彼女は、「加藤さんの好きなバージョンも、いつか見れたらいいな」とやはり静かに呟いた。
「それ、何?」
それは彼女との帰り道のこと。「初めて読んだ一般書籍は何か?」という話題でわたしたちが盛り上がっているときの出来事だった。
わたしは赤川次郎の『縁切り荘の花嫁』で、彼女は奇しくも同じ赤川次郎の『三毛猫ホームズのびっくり箱』だった。そんな事実に盛り上がらないわけがない。
とはいえ、赤川次郎の著作は数が多すぎるのと、全世代の老若男女から人気があるから、そんな偶然もありうるといえばありうるのだが。
しかしそれでもわたしたちははしゃぐ。はしゃいだついでに、わたしたちは現在の赤川次郎の著作が一体何冊なのかを知りたくなった。そして彼女が検索のために携帯電話を取り出した。
そこでわたしは、「それ」と彼女の待ち受け画面を指したのだ。そこには派手で、なんというか南国にいそうな美しい鳥が写っていた。
「これ? 極楽鳥っていう鳥なんだけど」
なんでもなく彼女が説明してくる。
「正確には風鳥っていう名前なんだけど、私は極楽鳥って呼び方が好きでそっちで呼んでるんだ」
聞いてみるとやはり熱帯に生息する鳥だった。彼女はその鳥の画像を気に入り、待ち受けに使っているとのこと。
「どうしたの、加藤さんこれ気に入った?」
「んー、どうもそうみたい」
そうしてわたしは彼女と同じ待ち受け画面になった。
何故だか気になり、気に入ったのだ。好きになる理由なんてそんなもので十分だろう。
極楽鳥、もとい風鳥のことをそれから家に帰って少し調べてみた。どうもこの鳥には、なかなか面白い──といっては鳥に失礼だが──不思議な逸話があった。
それは“この鳥には足が無い”という、今でいう都市伝説のようなことが信じられていた時期があったということだ。
昔ヨーロッパにこの鳥が剥製で持ち込まれたとき、交易用に足を切り落とされた状態で持ち込まれたらしい。それで当時のヨーロッパの人々は、この鳥はその美しい見た目も相まって本当に極楽から来た鳥であり、この鳥は一生木の枝にとまらず風にのって飛んでいるbird of paradise(天国の鳥)と考えられたのだとか。ついでにいうと、その昔風を餌にしていたとされることから、その名が「風鳥」と名づけられたとのこと。by一部ウィキペディア引用。
そんなことが本気で信じられていたとは。もちろん現代ではこの鳥にもちゃんと脚が存在することが知られている。なにより、わたしや彼女が待ち受けにした風鳥の画像にはばっちり脚が写っていた。
そんな風にわたしが勉強机に座り、一人画面を見ながら頷いていると、後ろから小学六年生の我が愚弟が声を掛けてきた。
「姉ちゃん、辞書貸して」
「えー、なんで? 自分のは」
「学校に置いてきたんだよ。いいから貸してって」
弟は、わたしが「必ず返せよ」と一言添えて差し出した電子辞書を受け取りながら、「ついでになんか本貸して」と追加要求をしてきた。
「あれとか面白そうじゃん、『世界は密室でできている』」
「お前にはまだ早い」
「姉ちゃん、“読む本に早い遅いは無い、あるのはタイミングだけ。”byコバケン。だよ」
知らない名前が出てきた。
「誰だコバケンて」
「うちの塾に四月から入った先生だよ。木幡憲一郎、略してコバケン」
弟が通っている隣町の塾講師の言葉なのだという。慕われているのだろう、弟が言うにはなかなかに面白い先生らしい。
「国語の先生なんだけどさー、授業が面白いの。『アリとキリギリス』の元ネタ、姉ちゃん知ってる?」
「『アリとセミ』だろ」
わたしの返しに、「なんだ知ってんのかよ」とやや不機嫌になる弟。
「で、そのアリとキリギリスの解釈が面白いんだよな。キリギリスは可哀想か否か、アリは無慈悲か否か、みたいな」
そういやその解釈は有栖川有栖の小説にも登場したな。
これ以上聞くとなにやら面倒な問答を吹っ掛けられそうだったので、わたしは棚からご所望の本を取り出して渡すと弟をさっさと自分の部屋に戻るよう促した。お前に割く時間はここまでだ。あと、電子辞書ちゃんと返せよ。
そんな、わたしが極楽鳥の画像を待ち受けにした翌日。わたしは奥寺静子と学校内にある中庭の寂れたベンチで昼休みを過ごしていた。
「加藤さん、弟いるんだ」
「そう、生意気盛りの小学六年生」
ついでに、昨日の出来事も喋る。『アリとキリギリス』の元ネタは、やはり彼女も知っていた。弟よ、これが年の差というものだ。
「ああ、でね。うちの弟がその塾の先生から名言を授かったらしいんだよね。その先生曰く“読む本に早い遅いは無い、あるのはタイミングだけ。”だって」
「面白そうな先生だね」
「そう、コバケン……木幡先生っていうらしいんだけど」
わたしがその名前を口にした途端、今まで楽しそうな雰囲気を醸し出していた奥寺静子の顔から表情が消えた。
それはいっそ清々しいほどの明白さで。そんな彼女の態度は、彼女がその名前に反応したことを否が応でもわたしに知らしめた。
静かになった中庭の寂れたベンチでしばし、二人の間に温かな春の風が吹く。その吹き抜ける風の心地良さはまったくこの状況と合っていなくて、気を抜くと間抜けにも失笑しそうになるほどだった。
「実は極楽鳥って、父の影響なんだ」
風が収まってから、奥寺静子はそう言って静かに口火を切った。
「うち、母子家庭で。小さい頃に両親が別れてて」
いきなりそんなヘビーな家庭の事情を、彼女は何の躊躇いもなく淡々とわたしに打ち明けてきた。そういう話題はもう少し親しくなってからでも良くないか。と少し思ったが、彼女なりに今が言うタイミングなのだと考えたのだろう。ならば受け入れるのが筋という物だろう。わたしは黙って彼女の紡ぐ言葉を聴く。
「だから父のことは薄らとしか記憶になくて。極楽鳥は父が好きな鳥だって、母がうっかり口を滑らせたから知れたんだけど」
どうやら家庭内で彼女の父親の話題はなんとなくタブー扱いらしく、彼女自身もあまり自分の父親について知っていることは少ないらしかった。
「でもね、父の名字は知ってるの。……“木幡”っていうらしいんだ」
今度はわたしの表情が無くなる番だった。
それって……。
その日の夜、電子辞書を約束通り返しに来た弟を捕まえて訪ねた。
「あんたの塾のさ、前言ってたほら、木幡って先生、どんな先生なの?」
どしたの姉ちゃん? と不思議に思われながらも、わたしは弟から塾講師の木幡先生についての情報を収集する。
木幡先生。フルネームは木幡憲一郎、塾の生徒からのあだ名はコバケン。四十代くらいで主に国語科を担当している。背は高く、痩せ型。色白で日に焼けない体質。楕円形の眼鏡を掛けている。
「教え方は独特だけど面白くて、解りやすいってさ」
生徒に人気の先生だよ。と、わたしは奥寺静子に調べてきた内容を報告した。奥寺静子はわたしの報告を聞き終えても、しばらく何も言葉を返さなかった。しんとした時間が、二人だけが残った放課後の教室に降りる。
正直、わたしに彼女の心情は分からない。想像も出来ない。顔も憶えていないと言う自分の父親、かもしれない人の情報を渡されて、それで何を思うのかなんて。それは軽々しく想像してはいけないような気がしたから。
「加藤さん」
奥寺静子がまっすぐわたしを見た。いつもと同じ顔だった。悲壮感とか哀愁とかもなく、かといって変に興奮した様子でもなく。いつもと同じ、淡々とした表情と声と態度だった。そして、やっぱりいつも喋っているのと同じ声音で彼女はわたしに告げる。
「会いに行くのに、一緒に付いてきてくれないかな」
誰に? なんて、訊かなくても分かった。
それからの行動は早かった。二日後の日曜日の正午過ぎ、電車で一時間も掛からない隣町の駅のプラットホームにわたしは奥寺静子と二人で降り立っていた。
「ここから歩いて十五分ぐらい行った所にある学習塾の玄関先で、木幡先生が塾に来る生徒を出迎えるらしい」
弟から聞いた確かな情報だ。生徒の出迎えは当番制で、運が良いのか悪いのか丁度この日が木幡先生の番だった。
駅から出る人の群れに紛れるようにして、わたしたちは目的地に向かう。隣を歩く彼女が何を考えているか、まったく判然としなかった。彼女は自分の父親かもしれない人に会って、何をしようとしているのだろう。ただ確かめたいだけなのだろうか。貴方が私の父親ですか、と。
隣を歩く彼女はやはり平素とまったく変わらない様子だった。淡々と、まるで歩き慣れた道をいつも通り歩いているかのように駅から学習塾への道筋を前に進む。
わたしたちの間に会話はなかった。
こんなときに何を喋ればいいのか全然分からない。喋らないのが正解なのだろうか。
歩きながらなんとなく、こういう行動は冬にやるべきことだよな、と余計なことを考えた。
こんなことは、こんな春の陽気に晒された、のんびりと麗らかな日の午後にやるべきことではないように思う。もっと寒風吹きすさぶ、寂しい曇天の日に行うことではないのか。そんな、にべもないことをつい考える。まごうことなき現実逃避だった。ああ、帰りはどうしようか。どうなるのだろうか。
そうしてきっちり十五分歩いて、わたしたちは件の学習塾を見つけた。はたして、そこの玄関前に目的の彼はいた。
学習塾の玄関先に立つ背の高い、痩せた眼鏡を掛けた男性が見える。わたしたちは少し離れた角でそれを見つけると、彼の様子を窺うためにその角の陰で立ち止まった。
痩せた色白の背高のっぽ、少し横向きの顔には楕円形の眼鏡。ついでのように聞こえた彼の声は低音で、とても通りが良いようだった。
こちらにまでその声がはっきりと聞き取れる。そんなに大きな声ではないのだろうに、きっと発声の仕方が上手いのだろう。
ここから少し見ただけだけれど視線の先の彼は隣の奥寺静子にとてもよく似ているように、わたしは思えた。まるで親子のように。
「あの人、だよね」
「たぶん」
わたしの確認に奥寺静子はそう短く応えると、あまり躊躇を見せずに角から飛び出してその人影に駆け寄っていった。わたしは驚いて動けない。
そうえば、わたしは彼女が何かに躊躇しているところを見たことがない。いつも淡々と、何かをこなしている。それは度胸があるとか、肝が据わっているとかではなく、かといって諦めている訳でもなく、ただただやるべきことをやっているだけにすぎないような態度でそれをこなすのだ。少なくてもわたしからはそう見えていた。
わたしは学習塾付近の角の壁に半身を隠しながら、彼らの様子を窺う。丁度生徒たちの途切れた隙間に彼女は彼に駆け寄ると何事かを告げた、ように見えた。ここからではその声は聞こえてこなかった。
それから二人は何事かを喋っているようで、彼女はすぐには戻ってこなかった。会話する二人の様子は端から見ているとまるで親子のようで、角で待ちながらわたしは段々とそわそわしてくる。
ここからではその会話の内容は聞こえない。彼のよく通る声も彼女のよく知る声も、聞こえてこない。けれどそのことが、どこかもどかしくも酷く安心した。わたしは彼らの事情を知るのが怖いと思ったから。わたしは知らないままでいいのだと。
そうして、長いようにも短いようにも感じた二人の会話が途切れる。彼女がおもむろに振り向いてこちらに顔を向けた。そしてはっきりと角にいるわたしを確認すると、急ぐようにしてこちらに駆け戻ってきた。
彼女の後ろにいる木幡と思わしき男性もこちらを見ていた。わたしはそのとき初めて彼の顔を正面からまともに見ることが出来た。
背の高い、痩せた体躯のその上に付いているやや小さめの顔を目にしたときに何故か、彼の鼻の周辺にそばかすが散っているのが見えた気がした。見えるような距離では決して無いはずなのに。楕円形の眼鏡が邪魔で物理的にも見えるはずなんてないのに。
「あのね、違ったの」
「え」
彼女が角に駆け戻ってきてから、少し弾んだ声で開口一番そう告げてきた。
「違ったの。わたしの父親じゃなかったの、あの人」
「そうなの?」
うん、と力強く頷く彼女。そのはっきり確信を持っているよう表情を見て、わたしは何も言えなくなる。
あんなに……、あんなに似ているのにな。顔とか体型とかじゃ無くて、なんというか雰囲気が。彼女と彼が会話している様子は、傍目には本当に親子の様に思えた。
でも、それはわたしの感じたただの感想にすぎない。それは彼女には関係ない。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「いや、いいよ」
ちょっとした冒険みたいで楽しかった。とは言わない。それを言うのは今じゃない。きっと思い出として彼女と語るときがきっと来るはずだ。そのときにでも。
「帰ろっか」
彼女が言う。わたしはそれに同意して駅への道をゆっくり戻り始める。
再び二人の間に沈黙が降りるかと思われたが、彼女かふいに歌らしきものを小さく口ずさんだ。その歌には聞き覚えがある。
「『スロー』?」
彼女が笑う。薄くではなく、はっきりと。
「そう」
それはわたしの教えたミッシェルの『スロー』だった。それを彼女は何故か楽しそうに小さく口ずさむ。
そのとき唐突に理解した。奥寺静子にとって、家庭環境を喋るのは別に相手を信頼して心を開いたことにはならないのだ。それはただ事実を述べるということでしかなくて、心を許したとかそんな基準で喋っていたわけではないのだ。
彼女が心を開いたと言えるのは、そう解釈していいのは、例えばこんなふうに相手にはっきりとした笑顔を見せたときなのだ。
今日だって別にわたしだから付いてきて欲しかった訳じゃない。彼女の家庭の事情を知っていて、たまたま彼女に木幡の情報を持ってきたという、ただそれだけの理由で今わたしはここにいたのだ。……今までは。
そう、わたしの好きな曲を小さく口ずさみながら微笑む彼女を見て思った。
極楽鳥に実は脚があるというのを、当時のヨーロッパの人々も薄々は気付いていたのだという。当然だ。交易が出来るということは、やろうと思えば人だって行き来できるということなのだから。
実際に生息地に行って生きた極楽鳥の姿を見た冒険者の証言をヨーロッパの人々はしかし、信じなかった。あるサイトの解説では、それは多分信じたくなかったからではないのだろうか。と書かれていた。わたしもそう思う。知らないまま、分からないままのほうが、人は夢を見ていられるから。もしかしたらといつまでも幻想を抱いていられるから。
奥寺静子の父親は本当にあの人ではないのだろうか。見つからない、分からない、謎のままのほうが彼女は夢を見ていられるからそうしたのではないのだろうか。
そんな疑念が頭をちらりと過ったが、すぐにどこかへと過ぎ去っていった。
そんなことは当人同士にしか判らない。どんなに親子の様に見えても、それはただそう見えると言うだけである。どんなに友人のように対話していようとも、今初めてわたしが奥寺静子の本当の笑顔を見られたのと同じように。
ふと、木幡先生は『アリとキリギリス』をどう解釈したのだろうかと気になった。彼はアリとキリギリスの自然界での本当の関係知っているのだろうか? きっと知っているだろう。『アリとキリギリス』が本当は『アリとセミ』だったことを知っているような人ならば。
あとで弟に尋ねてみようかと思う。歌野晶午の本を差し出せば聞き出せるのではないだろうか。『世界は密室でできている』を読んで、「よく分からないけどちょっと泣いた」と素直に感想を述べてくる弟なら、それで大丈夫だろう。
そんなことを考えていたら、隣で一曲歌いきった彼女が静かに訪ねてきた。
「加藤明美だから、あーちゃんって呼んでいい?」
「いいよ、……しーちゃん」
こちらも思い切って彼女をあだ名で呼んでみる。彼女がはっきりと嬉しそうに微笑み、頷いた。
「ねぇ、このままカラオケに行かない?」
なんだかわたしも珍しく歌いたくなってきた。音痴だから、こんなことはめったに提案しないのだけれど。なんだかこのままただ帰るのは勿体なく感じたのだ。だって折角の友人とのお出かけだ。こんなに春の陽気が降り注ぐ、のんびりした麗らかな昼下がりにただ隣町に行って帰っただけなんて、なんだか寂しいではないか。
しーちゃんが、「いいよ、行こう」と同意する。頭の中で『丸の内サディスティック』のイントロが流れ始めた。たぶん、二人で歌ったってあの歌は格好良いはずだ。きっと。