5ちちのいげん
「ミューリ、外に出ることを許可しよう」
夕飯の席で言われた言葉に、ミューリは上げ掛けた匙をそっと皿に戻す。ゼファーとノストは、父親を見てからミューリへと目を向ける。エリシュは驚いたように、しかし嬉しそうに微笑んだ。
ミューリは片手を頬に当てて微かに頭を傾げて見せる。三歳児にしては出来すぎた嫋やかな動作に、アイテルは感心してしまった。
ゼファーもノストも三歳はまだ遊びたい盛りで落ち着きがなかったが、ミューリは既に淑女として穏やかな華やかさを纏っているように思う。息子と娘ではやはり違うのだろう、とアイテルは自分の中で納得して頷いた。
ミューリの賢さに釣られて兄二人も、七歳と五歳にしてはかなり大人な言動をするようになった。なってしまった。
礼儀指導の講師を呼ぶかと考えていたアイテルは、数日空けて帰る度に立居振る舞いが洗練されていく様子を見て、金の無駄に思ってやめた。ミューリとしては講師がいるならそれはそれでありがたい。貴族としての上下の振る舞いは前世の知識とは違う為、まだ曖昧な部分がある。
それも比較的家に居ることが多いエリシュに習ったり、執務室のプロテウスを訪ねて、ハンコ押しの手伝いをしながら実際に会話したり、兄二人の護衛にも習った。メイドのレイアも、そもそも淑女としての立ち居振る舞いを学べるだろうと側に置かれた元貴族である。貴族としての会話を学ぶのに不足はない。
不足は無いが「扇で口元をずっと隠す方は、大抵お顔に自信が無い卑屈な方でした。褒めるときは口紅の色を褒めるとお顔を出してくださるので、表情が読みやすくなりますよ」とかなりピンポイントな対応も教えられた。レイアとしてはもう子供として扱わないことにしているので、ミューリの年齢など関係なく応用編として教えているだけである。
そんな凄まじい勢いで学んでいく娘の報告を聞いてアイテルが思ったのは、「内側で学ぶものがなくなれば、外に出たくもなるよな」という共感にも似た哀れみだった。
「よろしいのですか?」
嬉しさを滲ませた表情に、アイテルは優しく目を細めて頷いた。兄二人も、驚きながらも心の底から喜んだ。ミューリの「外に出たい」という要望を一番聞いていたのは兄二人である。とくにノストは、口で負けることが多く物理的に止めるしかなかった。これでもう城全体を利用した鬼ごっこはしなくても良いのだと、安堵の息を吐く。
「ただし、護衛を一人連れていく」
「護衛は……どうなさるのですか?」
現在、城内で働くのはたった十三人。文官を三人、メイドが三人、執事が一人。城の警備が三人。そして護衛騎士として三人。
その護衛騎士三人は、ゼファー、ノスト、エリシュに付いている。
エリシュは社交界への出席のため王都にも出向く。護衛は不可欠だ。となるとゼファーとノストから借りることになるのだろうか。ミューリは小難しい顔をする。と、アイテルとエリシュは笑った。
「実は今度、一人ここへ雇うことになった」
「そんな余裕があるのですか?」
お金の話が娘の口から出たことに、アイテルは一拍おいてグルンと振り返り、扉の側にいる控えの文官に笑顔を向けた。気付いたミューリが口を開こうとしたが、その前に別の場所から声が上がる。
「父上、文官が悪いわけではありません。ミューリが上手なのです」
「あまり交流のない文官に目を付けて、数字見るの楽しそうって帳簿を見せてもらったり」
「ハンコ押したいって、民から上がってきた意見書を片端から確認したりもしてました」
「終いには自分へ充てられた予算を見つけて、必要ないからって削ってた」
始めのうちはミューリ一人でやっていたが、途中でゼファーとノストにバレてからは三人で領の内政を把握していった。子供に充てられた予算を少しでも領の予算に当てれば、街の整備が少しは進むだろう。どうせミューリはまだ社交にも出せない年齢で、ドレスや宝石など要らない年齢である。
すい、とアイテルはミューリへ視線をやった。
「……ミューリ」
「お母様には相談しました。領のお金の話ですから、お父様にも一報を入れましたよ?」
「ええそうね。ただそのとき、アイテルはちょうど王宮騎士選抜日の査定員で、重要なもの以外は流し見ていたかもしれないわねぇ」
「エリシュ……君もミューリの仲間なのかな?」
軽く笑みを浮かべて返事せず、エリシュは食事を再開した。これ以上は話さないという意思表示に、アイテルは後でもう一度領内の予算を見直そうと決意した。
ミューリはニコニコとアイテルを見ているのに対して、ゼファーとノストは全く目が合わない。アイテルの考えている通り、ゼファーとノストも自分に当てられた予算を見直して勝手に削っている。
そのおかげで道の整備の目処がついて、費用を捻り出していた文官たちは喜んだのだが。
「はあぁ……この話はまた今度しよう。ミューリの護衛に付く人物だが、これがまた少し厄介な話ではあるが……」
言い淀んだ様子に瞬きを一つして待てば、とても納得行かなそうに口を横に引いて、更に口に磁石でも入っているように重そうに開く。
「……第二王子が、視察に来るそうだ」
微かに目を見開いたミューリは、顎に手を当てて少し考えてから納得したように頷いた。
「もしかして、新しく雇う人というのは第二王子が手配してくれるのでしょうか? その代わりに領内の視察をさせてくれ、とか」
ミューリの言葉に、ん、とノストが一つ声を上げる。
「現在のピオスフィラ領内の視察をして、何か得があるのか?」
それに、ミューリとゼファーは「あります」「あるよ」と一緒に頷いた。
「ノストお兄様、第二王子は好奇心が旺盛だそうです」
「第一王子は城の中、第二王子は城の外を見る人らしいね」
「……好奇心で来て面白い場所じゃないだろ」
「一応、国全体のことを考える人だからね。現状が見たいんだろう。ピオスフィラが出来てから七年目、むしろ七年も来なかったんだ」
「王と第一王子が執務で動けない分、第二王子が動くのでしょうね。そうして『王族はあなたの地域を見捨てていませんよ』という印象も残せます」
「でも、流石にこの地に対して『見捨てていない』なんて綺麗事でしかないだろ」
「ノストお兄様は厳しいですね。でもそうです。得体の知れない人の善意は、警戒することに越したことはありません」
「同感かな。護衛の件についても、第二王子の息のかかった人間が城に入る、と考えておこう」
子供だけで進んだ会話に、アイテルは口を半分開けてポカンとして聞く。その顔にエリシュはクスクスと笑って、周りの文官たちは城の主人に心底同情した。「子供だから」と侮って貰えた方が良いと知っている「子供」に、城の全員が何かしらしてやられている。
もちろんアイテルには言わないで欲しいと口止めをして、帰る度にただの子供のように振る舞った。
周りに味方を増やしつつ、領主を欺く。全てはこっそり内政に関わるためである。
前世で帝王学を学んだミューリは、家を存続させる、人の上に立つなど、家を守る使命感が根付いている。その為、領の現状を見ておく必要があった。が、今は無力な三歳児とあって、何もできないことをもどかしく思っていた。
そうして、できる限り自分の力で現状を把握しようと立ち回った結果が今だ。「外を見せてくれないので、中から外を知ろうとしただけです」と穏やかな笑みを浮かべたまま言い切ったミューリの表情に、アイテルは城に閉じ込めたままだった自分が悪いような気がして来る。皿に匙を置いて、唸るような声を漏らした。
「……まぁ、お前たちの言う通り、何か思惑があって来るのだろうと私も思う」
「お父様、そんなに気を落とさず。もう隠したりしません」
「このやり取りを見せられて、また騙されるようなことはないよ」
じわじわと自分の娘を、恐れつつも頼もしく思う。
うんうんと頷いて、ミューリが手をぱちんっと合わせる。
「流石、私のお父様です」
「父上、王子の前では必要ならば子供らしくしますから」
「僕は二人より隠すのが上手くないので、あまり関わらないように後ろを歩きます」
だからここ最近ノストは自分に関わらなかったのか、とアイテルは両手で顔を覆う。「天才すぎると手が掛からなすぎて寂しい」と漏らされた文句に、エリシュが声をあげて笑った。
ミューリは置いた匙を手にして、質素なスープを口にする。贅沢をしたいわけではないが、食事くらいはまともなものに出来るだろうかと考える。農学部の友人に教えてもらったことは少なくないので、できるようなら農地の改革をしたい。
父親にも無事に普通の子ではないと認知されたミューリは、役立ちそうなことは片端から遠慮なくやってしまおうと考えながら、塩の味も薄いスープを笑みを崩さないまま味わった。
「そういえば、もうすぐミューリの四歳の誕生日ね」
食事を終えた席で、優雅にお茶のカップを傾けながらエリシュが嬉しそうに微笑んだ。子供が一年ごとに大きくなる様子が嬉しいと聞いていたミューリは、その表情に自然と顔に笑みが浮かぶ。
誕生日とはいえ、貧乏な今では大したパーティも出来ない。贅沢している場合ではないのでプレゼントは事前に断ってある。ミューリは柔らかい笑顔のまま、お茶を一口飲んだ。
「ミューリ、本当になにも要らないのか?」
「今のところは何も」
お金持ちになったらねだります、という言葉の裏が聞こえたアイテルは苦い顔をミューリに向ける。また子供らしからぬ遠慮の仕方だと溜息を吐きながらも、少し順応してきた自分の対応力の高さが憎い。
これは子供の強がりではなく、状況を把握して計算した上での発言だと分かってしまうことが憎い。
そもそも出稼ぎとはいえ、家のアレコレを部下に任せなければならない状況も悪いと思っている。不毛な地を渡しておいて、領主は週の半分は王都に来て騎士訓練を手伝えなど、王命でもなければふざけるなと剣を向けているだろう。
行ったら行ったで騎士たちは素直に訓練を受けてくれるが、城の内部ですれ違う中級貴族の一部は「土地を貰っても貧乏」などと妬み事を漏らす。遠回しに、なんなら差し上げようか、と領内の現状を伝えると全力で苦い顔をして逃げていく。逃げるくらいなら初めから言わないで欲しいものだ。王から貰ったものをあげるというのも失礼だが、要らないからと逃げる方も失礼である。
そもそも他貴族が管理したくなくて余っていた土地だ。羨むようなものでは到底ない。
アイテルが恨み言をお茶で飲み込んでいると、ゼファーとノストがじっとその様子を見つめる。視線に気付いて、どうした?と目を瞬かせると、二人は目を見合わせてからまた父へと目をやった。
「ミューリの欲しいものなら知ってる」
「喋れるようになってから何度か聞いてます」
「ん? なんだ、やっぱり欲しいものがあるのか」
「あら、私も知ってるわ。メイドや文官から聞いたことがあるの」
また仲間はずれかと寂しく思いつつも、父親としての威厳を保って、「教えてくれるかい?」と余裕のある笑みを浮かべる。ミューリは言う気が無いらしく、周りの様子を絵画でも鑑賞するように眺めながら優雅にスープのカップを傾ける。
三人は顔を見合わせてから、楽しげに口を開いた。
「ヴァイオリン」
見事に揃った声に、口を引き攣らせたアイテル。
ミューリはそれを見て、やっぱり無理そうだとクスクス笑いながら、期待していなかった分、落ち着いてお茶のおかわりを頼むのだった。