爽走
あなたは走っていました。
あなたは逃走していました。
何処をかは、きっと関係ありません。
ただ、必死に逃げ惑っていました。
何によるものかは、きっと関係ありません。
あなたの脇腹には、巨大な風穴が空いています。
傷口から溢れる血は銀色の長髪を染めていました。
しかし、あなたの状態などどうでもよいのです。
あなたが抱える、瀕死の少女。微かに震える呼吸だけが、あなたの耳元で喘いでいます。
あなたは瀕死の少女を背負い、何処かもわからない薄暗い道を彷徨い続けています。
あなたと少女の命をかけた、文字通りの鬼ごっこ。というわけです。
ですが、あなたの疲労は頂点に達していました。脳は酸欠状態ですし、心臓は破裂しそうなほどに暴れまわり、足も動いているのが不思議なほどです。
それでも、あなたは走るしかありません。走らなければ殺されてしまうからです。
何にかって?さて、何にでしょう?私もわかりません。そもそも、何故殺されるという単語が出たのかすら…。
「むぅ?そちはまだ、そこ、にいてくれて、おるのかの?」
少女の声は掠れ、恐ろしい死の気配が読み取れるようです。
「妾のことは、よい。…そちだけ、でも、先に行くがよ、い」
少女は「自分のことを見捨てろ」と言いました。自分自身の命を捨て、あなただけでも逃がそうというのです。
そして、彼女を置いていけば、逃げ切ることはあるいは可能かもしれません。
しかし、あなたは他人を犠牲にして生き残ることをよしとはしません。
だってあなたは四年前、最愛の父親を目の前で喪っているのですから。
「もう、よいのじゃ。そちと会えただけで、そちが覚えていてくれただけで、それだけで、妾は満足なのじゃ」
そのとき、あなたは何と言ったのでしょうか。記憶が朧げですが、たしか…「黙れ」でしたっけ。
ですが、このままでは逃げ切ることはできません。そうすればあなたたちは死ぬことでしょう。
あなたは神にでも縋りたい気持ちでした。少女の命は消え始めています。このままでは、あなたはまた、人の死に立ち会ってしまうことでしょう。
目の前で息尽きようとしている人を前に何もできず。
命が絶え、人生が終わっていく様をただ無力に傍観する羽目になるのです。
それだけは、「嫌だ」
あんな喪失は、あんな無力感は、あんな絶望だけは、二度と味わいたくありません。
四年前の二の舞は嫌だ。それだけは必ず阻止しなければ。だからこそ、あなたはここにいるのです。
二度と目の前で人が死ぬ場で傍観することにならないよう。
そんなあなたの思いは
「心砕きし 見えざる手よ」
呆気なく終わってしまいました。
「実行・死の宣告」
澄み渡った綺麗な詠唱が“耳元で”で聞こえた瞬間、あなたの心臓が直接握り潰されます。
「あーあ。だからあいつは言ったってのに。まったく、馬鹿な奴」
あなたは殺されたのです。共に逃げていた、少女の手で。
ですが、未だ命の灯火は消えていません。しかし消え行くのは現実。その中あなたは、少女へと這い寄り
「あ?何やってんだてめぇ。死際のくせに」
手を取りました。
あなた自身もわからなかったはずです。自分が何をしているというのか。
ただ、思考は一貫していました。一つだけ。たった一つだけ。「誰かを救える人間にならなければ」と。
そこで、あなたの意識は、思考は途切れました。
「っこの、大馬鹿ものっ‼︎じゃから逃げよと言ったのじゃ‼︎」
死に行くあなたの中に何者かの声が聞こえたような気がしました。そんなわけはありません。生物学的にありえません。ですが、確かに聞こえた気がしました。
「そちは、ほんとーに頭の悪い愚か者じゃ」
その声はあなたを罵倒するようでいて、慈しむようでいて
「…ますます好きになってしまうのではないか」
確かな愛の告白でした。