異世界で飛行少年やってます 〜天空都市の自由人〜
風向きは南西。
天空都市の間を繋ぐ飛空船は、大勢の旅客を載せて夜闇を進んでいた。
その船首には、ランタンのようにぶら下げられた見張り台がある。15歳の少年アスカは、そこから身を乗り出して空を見上げた。
「この星空のどこかに、地球もあるのかな」
吹き抜ける強い風に、外套のフードが脱げる。月明かりに照らされるのは、赤の混じった黒髪と、大きなゴーグルの奥で炎のように揺れる瞳だった。
彼は小さく微笑み、雲一つない夜空へと手を伸ばす。すると、頭の中にいつもの声が響いた。
『おいアスカ。また例の前世ってヤツかよ』
「あぁ。ファルコはどう思う? このどこかにあると思うか、地球」
『知るかよ。まぁどっかにはあんだろ。お前のソレが、妄想じゃねぇならな』
そう投げやりに返してくるのは、守護霊のファルコ。アスカがその身に宿している精霊である。
前世で病弱だった彼は、その短い人生のほとんどを病院で過ごしていた。世界を知るのはテレビやタブレットの画面越しで、両親の他に接する人間と言えば医師や看護師ばかり。ゲームの腕は良かったが、それを自慢できる友人など一人もいなかった。
あの頃と比べれば、今は自由だ。
泣き喚いた程度で体に酸素が足りなくなることはないし、少し走っただけで心臓が悲鳴を上げることもない。望みさえすれば、どこにだって行ける。
「――だから別に、あの頃に戻りたいってわけじゃないんだ。ただ、こうして空を見てると、なんだか妙に懐かしくなる時があってな」
『そーかい。まぁ良いんじゃねぇか。どーでも』
「はぁ……ファルコはいつもそうだよな」
アスカはドカッと椅子に座り、サイドテーブルの葉包みを手に取る。中に入っていたのは、飛空船の食堂で作ってもらった大きな握り飯だ。
「お前にはこう、情緒ってもんがないのか?」
『バカが、精霊にそんなもん求めんじゃねぇよ。だいたいその情緒ってのは、そうやって握り飯をがっつきながら語るようなもんだったか?』
「握り飯はいいだろ別に……あ、唐揚げ入ってた」
『知るか! ったく、この自由人め』
「お前だって大概自由だろ?」
いつもの調子でファルコと言い合いをしながら、水筒に入ったを果実水を飲む。
ちょうどその時だった。
アスカは何かの気配を感じ、立ち上がって見張り台から身を乗り出す。すると、前方の空に何やら黒々とした大きな塊が浮いているのが見えた。
「空賊か?」
『いや、ありゃ虫の群れだな』
「それにしてはデカいぞ。小型の飛空船くらいあるんじゃないか」
彼はこの船で3年ほど働いているが、これほど巨大な虫塊に遭遇するのは初めてだった。
備え付けの通信機を急いで手に取ると、側面のスイッチを入れる。
「操舵室、聞こえるか。こちら見張り台」
『どうした』
「11時の方角に大型のバグクラスタあり。船と人を喰われる前に、針路を変えろ!」
その報告に、通信機の向こうでは船員たちが慌ただしく動き始めた。
怒号が飛び、幾人もの足音がバタバタと響く。寝ていた者も叩き起こされたようで、寝言のような悪態がいくつも聞こえてきた。
やがて船体がギギィと軋むと、進行方向が少しずつ変わる。
『こちらでもバグを確認した。迂回を試みているが、接触する可能性が高い。アスカ、出られるか?』
「いつでも行けます」
『……わかった、頼むぞ』
通信機を置いたアスカは、外套を脱ぎ捨ててバックパックを背負う。彼の役割は見張りだけではない。緊急時には空に出て、船を守るために戦うことも職務に含まれていた。
もっとも、この飛空船のために戦うのは今回が最後になるだろう。彼は次の天空都市で船を降り、そのまま傭兵になるつもりなのだ。
準備をしていると、脳内に再びファルコの声が響く。
『おいアスカ。いつも言ってるが、報酬交渉くらいしろよ。これから先は、あのハゲ船長みてーなお人好しばっかじゃねーんだぞ』
「分かってるけど、今は後回しだ! みんながバグに喰われたら元も子もないだろ」
そう返し、アスカは右手を前に突き出した。
「精霊よ、汝の姿を示せ。【召喚】」
そう唱えると、彼の手から吹き出た魔力は、風を巻き込んで形を変える。この世界の人々は皆その身にトーテムを宿しているが、こうして対話できるのは一握りだけだ。
光が弾けると、そこには大きな鳥が佇んでいた。
真紅の翼と橙色の腹は、まるで燃え盛る炎のようだ。鋭い嘴に力強い鉤爪。見張り台の縁に堂々と立つ姿は、前世で見た隼によく似ている。
「行くぞ、ファルコ」
「舌噛むんじゃねーぞ、アスカ」
アスカがその背に飛び乗ると、ファルコは瞬く間に大空へと飛び出した。
月に向かってグンと加速してから、空を滑って目標へ近づく。ゴーグルを掛け直したアスカは、巨大なバグクラスタを眺めて息を呑んだ。黒い塊の表面では、体長1メートルほどの黒丸虫が無秩序にひしめき合っている。
この星の地上は、既に大半がバグの支配域となり、大地を失った人類は逃げるように天空都市を築いた。しかし、最近は空の上も安全ではない。
アスカがトーテム使いになったのも、10年前にバクに襲われたのがきっかけだった。炎上する船から空に放り出された彼は、必死の思いで自らのトーテムを呼び覚ましたのだ。
「前世の記憶が戻ったのも、あの時だったな」
もっとも、当時バグに襲われたのは暗殺未遂の疑いが濃厚だ。彼は故郷を捨て、自らを鍛えながらこれまで過ごしてきたのだった。
ふぅと息を吐き、呼吸を整える。
そして、膨大なマナを体内で練り込みながら、魔法を強く思い描いた。生半可な攻撃では、バグの体を覆う外殻と結界を貫くことはできないだろう。
「精霊よ、奴らを焼き尽くせ。【爆炎弾】」
アスカが込めたマナは、炎の魔法になってファルコの口から放たれる。着弾すると、それは閃光を放ちながら一瞬で燃え広がり、轟音とともにバグを焼いていった。
無機質な複眼が、一斉にこちらを向いて赤くギラリと光る。
「奴らを引きつけろ、ファルコ」
小さな炎を吐きながら挑発を繰り返せば、興奮したバグは羽を震わせながら追いかけてくる。ファルコは曲芸のように宙を舞うと、バグをひとまとめにしていった。
その動きを指示しているのはアスカ自身だ。
というのも、彼が前世で最も得意としていたゲームは、戦闘機で宇宙を飛び回る三次元シューティングだったのだ。その機動をイメージして練習を重ねた結果、今ではファルコを自在に乗りこなせるようになっていた。
集まったバグへ特大の魔法弾を撃ち込み、大きく旋回する。少し遅れて、背後からの轟音が体の芯を揺さぶった。
「ん……?」
「どうした、アスカ」
「あれは……ただのバグクラスタじゃない」
目を凝らせば、バグの剥がれ落ちた隙間からは船材の木目のようなものが見える。つまり、あの巨大なバグクラスタの正体は――
「バグに襲われてる飛空船だ」
「なるほど。通りでデカいはずだぜ」
「結界が張られてるな。中に人が残ってるかもしれない。行くぞ、ファルコ!」
アスカが呼びかけると、ファルコは面倒臭そうなため息を吐き、空高くへ向かって羽ばたく。
「何を言っても無駄なんだろ、アスカ」
「文句は後で聞く。人命救助が最優先だ」
上空で身を翻したファルコは、バグクラスタに向かって真っ直ぐ落ちるように飛んだ。
そして激突する直前。
アスカはファルコの背から跳ね飛ぶ。
「精霊よ、汝を怒りの炎と化せ。【爆炎化】」
宙を舞いながら唱えたアスカの呪文に、ファルコの体は炎となる。そのまま直撃すると、バクの塊は一瞬にして白熱し、破裂音を響かせながら次々と焼け落ちていった。
あたりを包む静寂。月明かりの中にポツンと残ったのは、黒煙を上げながらどうにか浮いている小型飛空船だけだった。
アスカはその甲板へと静かに舞い降りて、腰に下げた振動刀に手を添えながら周囲を確認する。
「もうバグは残ってないか……ん?」
見れば、甲板の隅には座り込んでいる人影があった。
服装と髪型からして女の子だろう。小刻みに震えているが、あんな風にバグの襲撃を経験すればトラウマになっていてもおかしくない。
(……メンタルケアは苦手なんだよな)
『ついさっきまで、人間の情緒とやらについて熱く語ってたくせによ』
(それは別の話だ。人と話すのは苦手だって言ってるだろ。しかも相手は女の子だし)
心の中でファルコと話しながら、アスカはゴーグルを首まで下ろす。
『オンナねぇ。たかが生殖機能の差ごときが、そのメンタルなんちゃらと関係あんのか?』
(はぁ……お前には一生分からないだろうよ)
アスカは小さくため息を漏らすと、彼女のもとへと近づいていった。
小柄だが、歳は彼とそう変わらないだろう。透き通った月色の髪を三編みにして、独特な刺繍入りのローブを着ている。見たところ外傷は無いようだが――
「災難だったな。大丈夫か?」
アスカの問いかけに、彼女はピクリと肩を跳ねさせてから、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「よ、よよよ……よくも私の獲物を横取りしちぇくれ……し、してくれたわね!」
吹き抜ける風が、彼女の長いまつ毛を揺らす。その碧い瞳は宝石のようで、整った顔はつい見惚れてしまうほど可愛らしい。
しかし、裏返った声と噛み噛みのセリフが、彼女の全てを台無しにしていた。





