怪物伯の飼育係
立てば処刑、座れば拷問、歩く姿は死神。
誰が最初に名付けたか定かではないが、怪物伯の異名で知られているウラジミール・イルクーツク伯爵。
彼の噂は数知れず、怪力無双の大男。
なんでも冬越しに失敗した人食い熊を素手で倒しただとか、罪を犯した領民を一家もろとも屋敷のバルコニーから吊るし首にして骨になっていく様子を楽しみながら食事を取っているとか、伯爵が治める北の辺境イルクーツク領を狩りの為に越境してくる北方の原住民の皮を剥いで防寒着にしているだとか、とにかく恐ろしい噂が絶えないイルクーツク伯爵。
――その男が。
「おやおやぁ? こんなところに野イタチですかねぇ」
今まさに目の前で
「放せえぇ! 無礼者、放せ!」
ノンナが主人として仕えるジェミヤン王子の胸倉を片手で掴み悠々と締め上げていた。
「威勢が小汚い、およそ社交の場に相応しからざる餓鬼、夜会の余興として解体してあげましょうか」
藻掻く少年の怒声、周囲の悲鳴と衛兵の動揺が絢爛華麗なる大広間のシャンデリアをサワサワと煌めかせる中で、あまりの恐ろしさにテーブルの下で腰を抜かしてへたり込んでしまった子爵令嬢ノンナ・サプリェットは獲物を見つけた悦びで艶めく伯爵の濃厚な蜂蜜色の目を確かに見た。
(わ、笑って……)
ノンナがこの世に生を受けて11年、イキイキと暴力を行使する人間と初めて出会った瞬間である。
こんな恐ろしいことになっている全ての原因は、野イタチこと第8王子ジェミヤンが異母弟である第9王子の社交界デビューの夜会に忍びこもうと愚かで余計な思い付きを行動に起こしたせいだ。
(だからやめましょうと申し上げたのに!)
大広間の準備中にテーブルの下に潜り込んだまではよかったものの、祝宴が始まってすぐ、ぬっとクロスのむこうから伸びてきた大きな手にジェミヤンは引きずりだされてしまった。
「このケダモノが! 放せ、はなっ」
「いいですよ」
伯爵がブンっとジェミヤンを振り回し容赦なくテーブルに叩きつける。
無残に飛び散るごちそう、割れる食器、愚かな少年の身体と共にひっくり返るテーブル。
厚手のクロスが大鷲の翼のように羽ばたき消えて少女の姿を完全に怪物の眼前に晒しあげた。
(目が、合ってしまっ)
伯爵は精悍な顔立ちをした背の高い男だった。
鼻筋の通った顔に一重の蜂蜜色の目、夜空色の髪は大広間のシャンデリアにも負けない星空の燦めきを纏っていたが、酷薄に歪んだ笑みを浮かべる口元と野獣のように獰猛な眼光との不釣り合いのせいで、ある種の不気味さを放っていた。
(殺される!)
悲鳴も上げられないほど震えて怯えるノンナを認めたらしい伯爵の目がパチっと瞬く。
「おや、まあ。これはお可愛らしい」
悲鳴と罵倒、衛兵に槍の穂先を突き付けられる中で、伯爵は膝をつき覆いかぶさるように大きな身体を丸め、紳士そのものの仕草で腰を抜かすノンナにそっと手を差し伸べた。
「ひっ!」
「スノードロップのように可憐なお嬢さん、お怪我はありませんか?」
今にも気絶してしまいそうな恐怖が胃の内側からジワジワと上がってくるなかで、叩き込まれた礼儀作法がノンナに伯爵の手取らせた。
(死、死ぬのだわ……お母さま、最後にお母さまに会いたかった)
「なぜテーブルの下にいたのですかお嬢さん」
(喋らなかったら嬲り殺される)
せめて綺麗に死にたい一心でノンナは声を震わせた。
「ジェミヤンさまが……弟君が、先に夜会デビューするからと……心配されて……」
伯爵はなぜか機嫌よく破顔する。
「なるほど! 年下の異母弟が自分を差し置いて先に社交界に入るのがムカついて呼ばれてもいないパーティーに忍び込んだと!」
「そ、そんなことは……」
ないともあるとも言えなかった。ノンナのジェミヤンへの忠節はまだ床に転がる残飯並みには残っていて、彼の面子を潰すような言葉には同意できない。
「ときにお嬢さん、アナタのお名前をうかがってもよろしいですか?」
墓標に刻む為に必要ですものね、とノンナの頭から血の気が引いていく。
「サプリェット家の4女、ノンナ……」
脳裏に墓石の前で崩れ泣く母の姿が浮かび、目尻で堪えていた涙がボロッとほどけ落ちていく。
「どうしました? お嬢さん」
「お、お母さまに……愛してますと伝えたかっ……」
ヒックとしゃくりあげて泣くノンナの手を取る伯爵は片手で軽々と少女を抱き上げると硬い指の皮膚で濡れる目元を拭いとった。
「一緒に伝えに行きますか?」
(お母さまの目の前で殺す気だわ)
公開処刑は惨すぎる。
「お父さまにもお会いしましょう」
安心するように笑う伯爵にノンナは首を激しく横に振った。
「ですがご両親に御許しをいただきませんと」
「お許しください……どうか、どうか……母は身体が弱いのです」
「驚かせてしまうでしょうか」
「ショック死してしまいます!」
親より先に死んだ挙句、死因となる親不孝を重ねることはできない。そこの窓から身を投げた方がマシだ。
「でも、いつか女の子はお嫁にいく為に親から離れるでしょう? そのときが来たと納得していただけるはずですよ」
「冥府にいくのと輿入れは違います!」
「アナタが嫁に来るのは冥府ではなくイルクーツクです」
その言葉にノンナの溢れ出ていた涙が引っ込んだ。
うまく息ができない。
世界のすべてが停止してしまったような驚きのなかで伯爵はノンナを抱いたまま柔和に笑み崩れ、蜂蜜色の目に慈愛を浮かべて愛の言葉を告げる。
「麗しのお嬢さん、結婚しましょう」
ああ、なんてこと。
そんな心中を最後にノンナの夜会での記憶はブツリと途絶えてしまった。
怪物伯が夜会でひと悶着を起こしたことはその場にいた貴族たちによってたちまちのうちに広まり、ノンナが未だ衝撃の昏倒から覚めない翌日に行われた領主会議でも取り上げられた。
「イルクーツク伯の廃位をご検討願います」
もちろん、悪い意味で。
王宮の円卓の間に集まる4人の領主たちのなかで、イルクーツク伯爵へ憎悪を隠さずに廃位の声を上げたのは南の貿易都市を治める青年伯爵だ。
「不敬千万だ! 王子の夜会であのように無礼な振る舞いを……度し難い!」
「小賢しく忍び込まなければよろしかったのでは?」
「そっちの王子ではない、第9王子のことだ!」
ニヤニヤと足を組んで頬杖をつくイルクーツク伯爵に年の近い南の青年伯爵は激しく円卓を叩く。
「大体、なぜ王宮に上がっている、勅令招集以外出入り禁止のはずだ!」
「王子本人から招待状が届いたのです、ご招待いただいてお断りするのも失礼ではないですか」
「世間体で送っただけにすぎん、いつも通り無視をしろ。 誰が貴様を好き好んで呼ぶものか! 私が後ろ盾をしている王子だから嫌がらせで夜会に来たのだろう!」
「南の坊ちゃん、その辺で」
背の低い総白髪の好々爺がなだめるように皺のある手をヒラヒラとさせた。ルーシュの国の食糧庫と名高い東の領地を治める伯爵だ。
「爵位を取り上げるのは5年前1度やって失敗しとるんだよ、お父上から聞いておろう」
イルクーツク伯爵の廃位が決まった途端、北側の鉱石資源の流通が止まってしまった記憶はまだ色褪せない。石炭も鉄鋼も手に入らなくなったルーシュの国は文字通り火が消えかけて僅か1ヶ月で爵位復帰となった。
「では牢に繋ぎましょう」
南の青年伯爵の怒りは収まりがつかなかった。
「第9王子の夜会を台無しにし、兄王子にも暴行を働いたのです。地下牢に幽閉しましょう!」
「それも10年前にやっておる」
筋骨隆々で顔に傷のある壮年の淑女は西の海側の領地を治める女伯爵だ。
「こやつを牢に放り込んだ途端イルクーツク領民が蜂起しよった。内乱を起こしたいならまず貴様の屋敷の地下牢を使え、陛下と我々を巻き込むな」
女伯爵は鼻筋から頬にかけて走る傷跡をひと撫ですると意味深にイルクーツク伯爵へ目を細める。
「夜会で求婚したそうだが」
「はい、サプリェット家のご令嬢です」
「聞いたことがない家だ」
「東のとこにある小さな村と田畑を治めとる子爵家じゃったかな」
豊かな白ひげを撫でながら東領地の伯爵がホッホッホと笑う。
「姫たちが美人ぞろいだと聞いたことがある」
イルクーツク伯爵は途端にニコニコとしだした。
「雪のような銀髪が素敵なお嬢さんです、み空色の目が明るく澄んだ秋空のようで、お心もとても健気で礼儀正しい方ですよ、片腕で抱き上げられるほど軽くて小さくて本当に妖精かと思いました」
女伯爵は怪訝に傷を歪めていると隣の好々爺がそっと「まだ11じゃて」と耳打ちした。
「この男の色ボケ話などどうでもいい!」
南の伯爵は最後の頼みの綱だとばかりにずっと黙り込んでいる王に顔を向ける。
「陛下、王子はご自分を責めておいでです。自身が至らないから怪物が騒ぎを起こしたのではないかと、どうか無作法者の裁きかたを直々にお示しください!」
詰め寄よるようにグッと身を乗り出した南の伯爵に彼らの主君、ルーシュの国の王が緩くまばたきをして椅子の背もたれから身体を起こした。
東西南の伯爵たちが居住まいを正す中、皺が目立つようになってきた王が何かを探るようにイルクーツク伯爵を見つめた。
「ウラジミール、余の子供たちはどうであった?」
「顔を覚えていません」
伯爵の辞書に不敬という文字はなかった。
「存在感、薄いんじゃないですか?」





