触手少女は掴めない
──俺はもう、巻き込まれているんだ。
本矢野康生がそう気づいたのは、何もかも手遅れになった後だった。
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始まりは寒さ深まる十二月の半ば。
イルミネーションで彩られ始めた夜の街に向けて、康生は喫茶店の出入り口に手をかける。
「先上がりまっす!」
「今日も遅くまでありがとうね。最近は物騒だから気をつけるんだよ」
「大丈夫ですって、これでも腕っ節には自信ありますから。おつかれっした!」
バイト先でもあるその場所にハキハキとした声が響き渡った。
禿頭の店長に見送られ、カランコロンと鳴る鈴を背に黒髪長身の好青年は外に出る。
「さっみぃ……うわ、雪降ってんじゃねぇか」
外ではちらほらと雪が舞っていた。
色とりどりのLEDライトを飾るように白い結晶が踊る。
それをダシにいちゃつくカップルとすれ違いながら、康生はコートの右ポケットで震えたスマホを取り出した。
『モトやん、いつこっち戻ってくんのー? またみんなで一緒に──』
文面を全て読み切る前に再び捻じこむ。
「すまねぇな、そっち側に戻るつもりはねぇんだ」
そう呟く康生は故郷とは違う夜空を見上げる。
彼が地元を出て県外の大学に進学してから、もう二年の月日が経とうとしていた。
はぁ、と曇り色の息を吐く。
「ちょっと、そこの青年」
「うお、びっくりした」
横合いからぬっとかかる声に康生は肩を跳ねさせた。
そこにいたのは黒いトレンチコートを着込んだ三十代ほどの男だ。
無精髭と猫背の人相の悪さが近寄りがたい雰囲気を放っている。
彼は康生が反応したのを見るや、懐から一枚の写真を取り出した。
「この少女を見たことがあるかね」
「少女?」
写真の中にいたのは中学生くらいの女の子だ。
髪をハーフアップに纏めた少女は恥ずかしそうにピースしている。
その左隅には走り書きで十二月二十四日という文字があった。
「いや、見たことないっすね。可愛いとは思いますけど」
「可愛いかどうかは聞いていないよ」
「……うっす、すんません」
康生の答えを聞くと、男はふむと無精髭を撫でながら背を向ける。
「チッ、聞くだけ聞いてありがとうも無しかよ」
「──あぁ、そうだ」
「うぉっ!?」
「今日は早めに帰った方がいい。髑髏スライムに襲われたくなければね。くれぐれも助けようなんて思ってはいけないよ」
背中越しに言いたいことを言い切って、男性はゆらゆらと夜の街を歩き始める。
やがて黒いコート姿は雑踏の中へ溶けこむように消えていった。
「髑髏スライム? 何だそれ。……まぁいいか」
特に気にすることなく、康生は彼が去っていった反対方向に足を踏み出す。
去年大学入学のためこの町に越してきた康生だったが、あんな人は度々見かけていた。
中には変な宗教や不可解な現象が話題になることも。
しかし、ただ日常を過ごす中でそれらは次第に収束していき、大半がいつの間にか次の噂に攫われるように消えていく。
康生にとってはその髑髏スライムも同じ認識だった。
全ては流れていく日常の外で無関係に流れる噂話。
彼はこれからも一人の大学生として平凡に過ごしていく。
はずだった。
「……ん?」
彼はとあるビルの階段に蹲る女性らしき姿を見つけた。
短いスカートに背の高いヒール、白いブラウスといったどう見ても冬の最中には薄すぎる格好。
道行く人たちは女性をすり抜けるように一瞥もせず通り過ぎていく。
だが、本矢野康生という青年は人並みに優しかった。
駆け寄って震える『それ』に話しかける。
「だ、大丈夫っすか!?」
「……」
『それ』は何も言わない。
康生に気づいた様子もなく、焦点の合っていない瞳でアスファルトを眺め続ける。
はらり、はらりと雪が舞って青白い肌に溶けて消えた。
「どこか具合が悪いんですか? 救急車でも呼びましょうか?」
「……」
降り積もる雪の勢いが強くなり、鋭く吹き荒んだ風が『それ』の髪を揺らしていく。
彼は気づかない。
周囲を通る人たちが、誰も康生を見ていないということに。
常人が踏み入ってはいけない世界に足を踏み入れたということに。
「ちょっと、ちょっとすみません」
意識を確認しようと肩に手を置いた、その時。
「え?」
どろり。
青白い女性だった『それ』に変化があった。
顔が、手が、足が。
青白かった肌を不透明な緑色に変え、うじゅりうじゅりと蠢きながら形を崩していく。
あまりの突然な、そして見たことのない現象に康生はその場から動けない。
やがて『それ』は服を残して両手でも抱えられない不定形の球体になった。
表面からはところどころに骨が飛び出し、その中心には髑髏が埋め込まれている。
──『髑髏スライム』。
なるほど確かに造形はスライムに近いのかもしれない。
しかしどこか聞き覚えのある名前とは真逆に、この世の存在とは思えないほどにおぞましい。
怪奇現象はそれだけに留まらなかった。
髑髏スライムの一部がぐにゃりと飛び出し、肩だった場所に触れたままになっていた右腕を掴む。
じゅう、と肉の焼ける音と匂いが微かに響いた。
右腕の痛みに康生は振り払うべく身体を捻る。
「ぐっ、ぐぁあああああっ! やめろ、離せ! 離……せっ」
だが、スライムの力は凄まじかった。
どれだけもがいても拘束が解かれることはない。
それどころか暴れるほどに全身から力が抜け、意識が薄れていく。
(やば……これ、死──)
だんだんともがく力が弱くなる。
目の焦点が合わなくなり、ひゅうひゅうと空気が喉を通る音が鳴り始める。
そんな康生を、髑髏は瞳のない虚であざ笑うように眺めていた。
周囲を通る人々は誰も彼を助けない。
一瞥すらしない。
孤独のまま意識が掻き消えるその一瞬前。
「シネ」
『それ』が横に吹き飛んだ。いや、吹き飛ばされた。
不定形は階段の先にあったガラスを突き破り、その奥の壁にぶつかってぐしゃりと骨を飛び散らせる。
スライムから解放された康生はがくりとその場で膝をついた。
「かはっ、はぁ……はぁ……何だ、今の──っ!」
息を荒げながら視線を上げた康生の目に飛び込んできたのは一人の少女。
彼はその顔に見覚えがあった。
髪は短くどこか顔立ちも大人びているが、黒コートが訪ねてきた少女その人だ。
サイズの合っていない上着にぴっちりとしたジーンズという格好だが、愛らしい顔までは隠せていない。
──だが人と違う点があるとするならば。
ぶかぶかの袖から伸びているのが手ではなく、テラテラと輝く玉虫色の触手だったということ。
それは今し方彼を捕まえていた『それ』と同じ色だ。
茫然とする康生の視線の先で彼女は再びムチのように触手を伸ばす。
しなやかに動くそれは地に堕ちた髑髏に巻きつき、捉えた。
「クダケロ」
「──!」
声にならない断末魔は誰のものだったのだろうか。
触手の中から何かが潰れるような音。
ぶちゃり、びちゃりと粘質のある液体が地面に落ちた。
『それ』を潰した少女はゆらりと振り返る。
彼女はにたりと愛らしい顔を歪めていた。
愉しそうに、面白そうに。
この世の邪悪を集めたような笑みで、未だに膝をついて動けない康生の首元に触手を伸ばす。
「キエテ」
その瞬間、康生の中で何かが弾けた。
「……ば、化け物ぉおおおおおおおおっ!!!!!」
彼は走った。力の限り。
目から涙を、鼻から鼻水を出して這うように体裁構わず逃げ出していく。
自分が安心できるただ一つの場所を目指して。
化け物を殺した化け物は触手をそれ以上伸ばさずその後ろ姿を眺めていた。
口元に浮かぶ邪悪な笑みは、まだ消えない。
●
翌朝。
南向きの窓から陽光が射しこむ部屋の中で康生は目を覚ました。
その顔がすぐに歪む。
「いってぇ……なんだこれ」
布団の中からもぞもぞと右腕を出して袖をまくる。
浮かび上がっていたのは、黒い痣。
その部分は昨日ガイコツに掴まれた場所だ。
「何だこれ……冷たっ!」
黒く変色した部分に触れたところで、人間の身体とは思えない冷気に手を引っこめる。
「病院に行った方が……いや、行ったところで何とかなるのか?」
無事な方の手でベッド脇に放り投げていたスマホをいじる。
どれだけ症状をネットで調べてみても、出てくるのは病気ではなく心霊体験ばかりだった。
「ま、まさかそんなわけないだろ。幽霊や化け物なんているはずないんだ」
誰に言うでもなく康生は一人そう呟く。
だが、理性で抑えつけようとしたところで、右腕から伝わる薄寒さは勢いを増すばかりだった。
「……誰もいない、よな?」
布団と服の擦れ、時を刻む時計の針、窓を叩く強い風。
部屋に蔓延る全ての音が康生の心をかき乱す。
──ピンポーン!
小気味のいいチャイムは康生にとってある種救いのようだった。
彼は慌ただしくも上着を羽織って玄関へ近づき、扉についたレンズから外を見る。
「……っ!」
『すみません、本矢野康生君はいますか』
そこにいた人物に息を呑む。
昨日会った黒コートの男が、扉の向こうに立っていた。





