妹になった幼馴染が猫に取り憑かれて甘えてくる
江波彩莉は天才だった。
江波彩莉はこの俺、伊月理人の一つ歳の離れた幼馴染だ。
江波彩莉はつい先日、名を伊月彩莉とし、俺の妹になった――
朝8時、スマホから流れるしつこいアラーム音で目を覚ます。
春休み中なのでゆっくり寝ていたいところだが、いつまでもだらしなくしているわけにはいかない。明日から学校が始まるし、今はもう父親と二人きりの生活とは違うんだ。
身体を起こし、自室を出て一階のリビングへ向かう。
ドアを開けるとパンの焼ける香ばしさとコーヒーのほろ苦い香りが漂った。
「あ、りっくんおはよー」
「おはようございます。イリーナさん」
キッチンに立っていたエプロン姿のイリーナさんに挨拶を返す。
イリーナさんは父親の再婚相手。つまり俺の新しい母親だ。
ロシア人とのハーフで名前は漢字で依里奈と書く。俺が幼いころ、いりなと上手く発音出来ずにイリーナとなってしまった事から、今もその愛称呼びが定着している。
きめ細かい綺麗な金髪をなびかせ、その瞳はエメラルドグリーンに輝く。ハーフと言えど、絶世のロシア美女と呼べる出で立ちだ。
しかし本人はロシアの言語も文化もさっぱりだと、生粋の日本人を主張している。
「えーっと……イロリちゃんは……?」
俺はリビングを見回し、いつも俺よりも先にいる人物がいないことに気付く。
「イロはもう入学式行ったわよ」
「あ、そうか。今日は入学式だったか」
「同じ高校なんだからりっくん、イロのことよろしくねー」
「それは……ご期待に添えかねますね……」
「ふふふ。じゃあ、私はそろそろ仕事に行ってくるね。お昼はそこに二人分のお金置いておくから、なんかテキトーにヨロシク! てことで行ってきまーす!」
そう言ってイリーナさんはエプロンを取ると、颯爽とリビングを後にする。
俺は誰もいなくなった家で、一人淋しく朝食を摂った。
そして、朝食を終えた俺は自室に戻る。
「やっぱりなんか落ち着かないな……」
この家に引っ越して一週間ほどが経つが、環境の変化にまだ順応出来ていなかった。
今までは父親と二人でワンルームのアパート暮らし。それが一軒家になったもんだから、この広々とした居住空間にただ一人だけという状況にソワソワしてしまう。
まあ、父親が再婚して変わったのは住む場所くらいなんだけど……
この度、家族となったイリーナさんと彩莉とは顔見知りというレベルではなく、それこそ前から家族同然の関係だった。
父子家庭の父親、母子家庭のイリーナさん。部屋が隣同士だった二人は彩莉が生まれてから子育ての協力関係を築き上げ、俺たちは同じ環境で育てられてきた。
ある程度物心ついた頃から、いつかは再婚するんだろうなと確信していたくらい親同士の仲が良かったのだが、俺らが義務教育のうちは保険うんたら手当うんたらと大人の事情があったらしく、彩莉が高校に上がったこのタイミングでの再婚になったそうだ。
もちろん親同士だけでなく、俺と彩莉も本当の兄妹のように仲が良かったのだが……
「はあ……どうしたものかな……」
静かな部屋の中心で小さく溜め息をつく。
そして俺は今日もまた、この家から逃げるように市立図書館へ向かうのだった。
商業施設と違って、早く開いている図書館は都合がいい。
今日も本を手に取り読み耽る。
一度読みはじめれば時間が過ぎるのはあっという間で、気付くと時計の針は午後の1時を過ぎていた。さすがに腹の虫も鳴いてくる。
いつものようにコンビニのイートインスペースで昼食を摂っていると、ふとあることに気付いた。
「しまった……イロリの分の昼食代も持ってきてしまった……」
入学式は午前中で終わるはずなので、この時間にはもう帰宅しているだろう。
家にも多少食べるものはあると思うが、一応おにぎりやサンドイッチを購入して帰ることにした。
帰宅しリビングに入ると、部屋の中心に佇む少女の姿が目に入る。
「あ……帰ってたんだね。お、おかえり、イロリちゃん……」
静かに振り返った彩莉にぎこちなく声を掛ける。
栗色の長い髪をなびかせ、透き通る真っ白い肌、淡いブルーの瞳はクォーターと言えど母親のもつロシアの血を色濃く受け継いでいる。
そこに立っているだけで妖精かと見間違うほど、可憐な妖艶さを彩莉は漂わせていた。
黒のパーカー、グレーのショートパンツというラフな部屋着に着替えているにも関わらず、その妖艶さは色褪せてはいない。
彩莉は無表情でこちらを見つめていた。いや、睨んでいるのかもしれない。
「あー……えーっと、イロリちゃんの分の昼食買って来たんだけど良かったら食べる……?」
彩莉は俺の差し出したコンビニ袋を黙って受け取り、中を確認する。
「…………パスタが食べたかった」
そう言って袋ごとテーブルの上に置くと、ソファーに座りスケッチブックを広げた。
「パ、パスタだね! 分かった! すぐ買ってくるよ!」
「別に……いい。……あとで食べる」
「そ、そう? いやー、なんかお気に召すものがなくて本当にごめんね」
こちらの台詞に意も解さず、彩莉はスケッチブックの上に色鉛筆をはしらせる。ソファーの前のテーブル上には、百種類近くの色鉛筆が並んでいた。
俺は絵を描く彩莉の姿を、呆然と立ち尽くして見つめていた。
「……お兄ちゃん」
こちらに目を向けることもなく、彩莉から言葉が発せられる。
「は、はい! なんでしょう!?」
「……そこ……目障り」
「はっ! すいませんでしたぁ!!」
そのまま逃げるように、慌てて自室に引っ込む。
「あーーー!! やっぱりうまくいかないなーー!!」
倒れこむようにして、ベッドの上にに大の字で仰向けになった。
兄妹同然に育てられた仲良しの幼馴染。そんなものは遠い昔の話だった。
彩莉はもともと口数の少ない大人しい子だったけれど、それでも以前は表情や感情を表に出す明るさを持っていた。
それが、俺が中学に上がったくらいの頃から、急に冷めたようになってしまったのだ。
しかも俺に対しては特別冷たい! 一体何故なんだ……
毎日の図書館通いはこの家からではなく、そんな彩莉から逃げるための口実だった。
イリーナさんは
「まあ、思春期のお年頃だから色々あるわよねー」
と軽く言って、娘の変化をあまり気にしていない様子だった。
しかし、俺たちは顔を合わせてもロクな会話もなく、次第に心の距離が離れてしまっていた。
さらに彩莉は絵を描くことに秀でた天才だった。
小学生の頃からコンクールに入賞し続け、今となってはその道では名の知られた有名人。
そして絵だけではなく成績も優秀、その学力は学年トップレベルだ。
そんな才能の差も感じてか、今の俺は彩莉にどう接していいか分からないでいる。
せっかく本当の家族、本当の兄妹になれたのだから、昔みたいに笑いあえる関係に戻りたい。
しかしどうしたらいいのか、未だにその糸口すら掴めないでいた。
「小さい頃は「お兄ちゃん!」って俺達の後をついて回ってきていたんだけどなー」
昔を懐かしむも、今はその面影すら感じられなくて寂しく思う。
「お兄ちゃん!」
「あー、そうそうこんな風に――――って、え!!?」
勢いよく部屋のドアを開けて入ってきたのは彩莉だった。
「うにゃああ!!!」
と言いながら、もの凄い跳躍で飛び跳ね、俺の上にダイブした。
「どぉぅっふ!!!!!」
腹部に激しい衝撃が走る。
「イ、イロリ!? 急にどうしたんだ!?」
痛みの残る腹部をさすりながら、奇行を起こした彩莉を見る。
すると彩莉は「ごろにゃ~ん」と言いいながら、俺の膝の上で丸くなり、頬を摺りよせていた。
「お兄ちゃん。頭を撫でて欲しいニャ」
「え……? 頭を……? こ、こんな感じか?」
そっと優しく頭を撫でる。
彩莉はふにゃ~んとした表情でされるがままになっていた。
ヤバっ! なにこれ、めっちゃカワイイんだけど!!
「本当にどうしたんだよ……こんな耳まで生やして…………って耳?」
まるでネコのように甘えてくる彩莉の頭に、本物のネコの様な耳が生えていた。
お尻からはちゃんと尻尾も生えている。
頭を撫でながら、さりげなくその耳に触れてみた。反応してピクっと動く。
「んな!!!?? なんだよコレ? いや……尻尾も動いてるみたいだし、コスプレ……ってわけじゃないよな……?」
すると彩莉は身体を起こし――
ゆっくり顔を近づけ――
俺の頬を――ペロっと舐めた。
その瞬間、ザラリとした感触を感じ、全身に鳥肌が立つ。
「っっっ!!!?? 猫舌!!!?」
「にゃっは~」
彩莉はニヤ~っと笑いながらこちらを見つめる。
「お、お前はなんなんだよ……本当にイロリ……なのか……?」
外見は彩莉で間違いない。
しかしこの行動はなんだ? 今までの彩莉からは到底考えられないことばかり。
さらにはネコ耳と尻尾、猫舌まで兼ね備えている目の前の超カワイイ生き物を、もはや人間だと言い切るのも難しい。
「ネコはネコだニャ」
「ネコって……イロリじゃないのか……?」
「そうだニャ。ネコだニャ」
「イロリは……どうしたんだよ……?」
するとネコはう~んと難しい顔をしたあと、何かを閃いたようにパァっと表情を明るくする。
そして、満面の笑みでこう言った。
「ネコはニャんにも知らニャいニャ」