たったひとつの冴えない証明
「飲酒運転ってさ、最低だと思うんだよね」
昼間の部室でスコッチをストレートで煽りながら、彼女はそんなことを言った。
「未成年飲酒も大概ですがね」
「未成年の飲酒が禁止されているのは身体に害が及ぶからだろう?なら自己責任の範疇で、さらに言うなら私はもう体が出来てるから害は大人と同等程度だ」
「反論しませんけど、そういう理屈を捏ねたいんじゃないでしょう?」
僕がそう言うと、彼女はグラスを見つめながら、ちょっと嬉しそうに口角を上げた。
「だって先輩は、未成年者飲酒禁止法が存在しない世界では絶対に酒を飲まない。むしろ有害だから飲むべきじゃない、と言い張る様子が目に浮かびます」
「……よくわかってるじゃないか、流石実一君だ」
その様子を改めて見て思うが、彼女、六十苅要には制服が似合わない。
制服の側が彼女に釣り合っておらず、ちぐはぐな印象を受けてしまう。
女子高生らしさというか、発展途上の感じがしないんだと思う。
軽く切り揃えられた前髪と、簡単に後ろでまとめただけの長髪に、手の加えようがない。
長身で、女性にしては中々体格が良く、夏服から伸びた手足は細身であるもののしっかりと筋肉がついている。
趣味は読書と散歩と登山、と言い切るだけはある。
「まあでも飲酒運転は格が違うね。というのも、この前お店の前で酔っ払いが大声で騒ぎながら車に乗り込んでるのに出くわしてさ。あれは醜悪だった。人を殺せる鉄塊を動かしてる自覚があるのかね」
「運転手はシラフなんじゃないですか」
「いや、全員飲んでるのを見たよ。一応通報しといた」
「……その行為に咎める要素はないですね。でも、飲んでるのを見た、ってことは先輩はお店の前で彼らに出くわしたんじゃなくて、お店の中で彼らを目撃してますね。ってことは先輩も飲んでますね」
「あっ、バレた」
つまり舌のアルコールも乾かぬうちに飲酒運転を通報した訳だ。
六十苅さんはそういうことを、自分の中で矛盾なく行うことが出来るのだ。どうも罪悪感とかもないらしい。
最初は一種の精神異常のようなものかと思った。
しかし彼女は異常と断ずるには些か整理され過ぎているし、筋も通っている。
単に善悪の区別がつき過ぎてるだけなのだ。
『善と悪を区別するなら、私の中の善悪だって分けて考えるべきじゃん』
聞いてみたら、そう言っていた。
六十苅さんの善は、本当に模範的なものだ。
こうしてボランティア部に所属し、人の笑顔を喜びとし、将来は多くの人の命を救う医者になりたいとのこと。
本心からの言葉だ、それは見ず知らずの後輩を助ける為に、やすやすと己の体を投げ出して生死の境を彷徨ったことが証明している。
しかし、そうなると、自ずと疑問が湧いてしまうのだ。
彼女の論に照らし合わせるなら、この野放図に膨らんだ大きな善に対して、あまりに悪が小さ過ぎるんじゃないだろうか、って。
最初の発想は、そこからだった。
「まあでも、車を責任もって運転しろってのは同意しますよ。特にこの町は交通事故多いですし」
「……あー、いや、その話題に発展させるつもりはなかったんだがね、うん」
六十苅さんはちょっとバツの悪そうな顔をした。
「お祖母さんのことは、本当に残念だったね」
「半年も前のことですから」
事実、彼女はこの話題を避けてくれていたのだ。
この話に持っていったのは僕で、それは勿論意図的なもの。
その為に僕は今日、彼女をここに呼び出しているのだ。
「でもね、半年前、先輩が言ったことは覚えているんですよ」
足りない唾を、飲むフリをした。
「──人間は、本人が思うよりずっと死の淵の近くに立っている」
祖母は交通事故で死んだ。
散歩中に車に撥ねられたのだ。
祖母は目が悪く白杖を使用していた。
現場検証の結果は、信号を青と間違えて渡り、そのまま車に撥ねられたとのことだった。
「最近、その言葉の意味する所が、ようやくわかったんです」
僕は六十苅さんの目を見た。
「数ヶ月の間、ちょっと視線を変えて生活してみました。つまり、自分と、他人の死を意識してみたわけです」
階段を降りる時、もし足を踏み外したら。
自転車を漕いでいる時、もしくしゃみでもしてハンドル操作を誤ったら。
信号待ちをしている時、もし誰かが自分を押したら。
あるいは、自分が誰かを押したら。
「そうしたら意外にも死は身近にあった」
回り始めた口が一旦止まった。
この先は決定的になると、自分で理解した。
もう舵は切られているけど、それでもまだ引き返せる所だった。
「もっと言えば、それは人為的に簡単に引き起こせそうなこともわかった。さらに加えるなら、誰にも目撃されず、証拠を残さずに実行することもどうやら可能みたいでした」
だけど、僕は止まらなかった。
「例えば、そうですね、何かしらの事情で凄く混んでいる駅、を想定しましょう。電車が来るタイミングで人混みの中の誰かを軽く押せば、呆気なくホームから転落して轢かれてしまいそうなものではないですか?」
六十苅さんはグラスを、机に置いた。
「きっと、証拠は残らないね。立証も難しいだろう」
目と目が合っていた。
かつてないくらい嬉しそうな顔が見えた。
それはとても綺麗な、歪んでると思いたくなるくらい綺麗な微笑だった。
「後は、滑落したら即死、みたいな大自然のレジャーでも似たようなことが出来そうですね。例えば──」
「──登山、とか?」
会話が成立してしまった。
してしまったのだ。
それは彼女からの肯定だったし、僕が何を言いたいのか、必要十分に伝わってしまった証拠でもある。
「ちょっと極端な例を言ってみましょうか。用意するのはスピーカーと、そうですね、ありふれてるけど顔は見辛い服装がいいですかね」
六十苅さんは何も言わず頷く。
「場所は、横断歩道。信号付き。ターゲットは盲目で、白杖を持っている老人。その横断歩道の周りには他に誰もいない。勿論監視カメラがないのは確認済み」
優雅にグラスを手に取る。
「タイミングは難しそうですが、車が来そうな瞬間を見計らって、信号待ちをしている老人に近づき、すれ違いざまにスピーカーのスイッチを入れる」
薄い橙色の液体を口に含み、美味しそうに転がす。
「そうすると、スピーカーからカッコー、と言う間抜けな音が聞こえる」
もう一度グラスに口をつける。カラン、と氷が硝子に触れる音がする。
「老人は信号が青に変わったと誤認し、横断歩道を渡る。そして、車に轢かれて死ぬ」
そして彼女は、グラスを机に置き直した。
「不確定要素が多過ぎるね。そんなことが実行可能な状況自体が、それこそ何万分の一以下の確率でしか起こり得ない」
「その通りです」
「その状況を準備していたとしたら、随分怪しい様子を晒すことになるだろうね。職務質問の格好の餌食だ。目撃者だって増えるだろう」
これは確認作業のようなものだった。
「だから、用意していないんですよ。そんな状況なんて」
僕は答えた。
「偶然に任せてるんです。一定の状況を想定し、道具を準備し、後はそういう状況が来るのを注視して待つ。そうすれば立証出来ない無差別殺人を簡単に実行出来ます」
「気長な話だね」
「ええ、毎日根気良く散歩を繰り返したって、一年にそんな状況が何回も来るもんじゃありません。でも、この小さな町の交通事故の多さを説明するくらいには十分な数です」
言い終えて、一呼吸置いた。
六十苅さんの瞳は爛々と輝いているように見えた。
「どうして、そう思ったんだい?」
何を答えようか少し迷った。
先輩の散歩コースや通学路、事故の場所だとか、間接的な細々とした論拠はいくつかあった。
でも、重要なのはそこではない。
殺人と紙一重の日常を送れる人間、その時点で容疑者が少な過ぎるからだ。
「そうですね、あなたは──」
僕の命の恩人で、先輩で、尊敬する人で、多分、初恋の人で、そして何より
「──妊婦を殺した帰りに駐輪場で倒れていた自転車を起こす、そういうことが出来る人でしょう?」
彼女はまた、微笑んだ。