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逆さ虹の森の物語

根っこ広場のきつねさん

作者: 曲尾 仁庵

 根っこ広場のかたすみに、

 世話焼きギツネが住んでいる。

 泣いてる子供を放っておけぬ、

 生まれながらのおせっかい。

 金の毛並みとふわふわしっぽ、

 紅茶とお菓子が大好物。

 でも気を付けて。

 根っこ広場の管理者は、

 ただのキツネにゃ務まらぬ。

 彼女は確信する。私の存在が世界から幸福を奪うのだと。


 大陸の辺境に、『逆さ虹の森』と呼ばれる森がある。都からはるかに遠い西の果て、『竜の背骨』と呼ばれる大山脈に抱かれた広大な森だ。『なみだ川』という名の大河が森を南北に貫き、河の西側には小動物や草食動物が、東側には大型の動物や肉食動物が多く住まう。西と東の交流は乏しく、両者をつなぐ唯一の交通路である橋も老朽化が進み、『オンボロ橋』のあだ名が定着してしまっている。正式な名称はあるはずだが、もはや誰も知る者はない。

 森の東側の、中心部からは大きく外れた場所に『根っこ広場』はある。樹齢千年を数えるオークの巨木が鎮座するその広場は、近所に住む動物たちが時々散歩をする以外は、訪れる者も少ない静かな場所だ。オークの巨木の根元はうねり絡まる太い根がむき出しになっており、広場の名の由来になっている。根の隙間からは、はるか地底へと続く巨大な空間が顔をのぞかせており、濃くわだかまる闇がその果てを見通すことを拒んでいる。『この木の前で嘘を吐くと、根に捕らわれて闇に引きずり込まれる』などという、真偽の明かならぬ噂がまことしやかに囁かれるのも、この巨木の持つ圧倒的なまでの生命力、いわば霊威というべきものを、見る者が感じ取っているからかもしれない。

 そんな根っこ広場の片隅には一軒の小さな家があり、一匹のキツネが暮らしている。根っこ広場の管理者であるそのキツネは、落ち葉を掃いたり、ベンチの点検、補修をしたりしながら、のんびりと暮らしている。


「さむ」

 冬の朝の、射すように冷たい空気が満ちる森を、一匹のヤマネコの少女が歩いていた。まだ幼い顔立ちの中に、心細げな瞳が揺れている。寒そうに身を縮めながら地面を見つめて歩く姿は、どこか目的地に向かって歩いているというよりは、この場に留まることを拒んでただ足を踏み出しているように見える。

「ここ、どこだろ」

 呟いて、少女は周囲を見回した。この辺りに土地勘があるわけではないのだろう。何か場所を示すものはないかとばかり、せわしなく視線をさまよわせている。吐く息は白く、空から降る日差しはまるで頼りない。目に見えぬものに抗うように、少女は口を真一文字に結んだ。

「あっ」

 視線の先に何かを見つけたのか、少女が短く声を上げる。そこには彼女の背丈と同じほどの高さの石柱があり、金属でできたプレートがはめ込まれていた。

「ねっこ、ひろば?」

 プレートに書かれた文字を口にして、少女は気落ちしたように目を伏せた。『ねっこひろば』という名にあまり馴染みがなかったのだろう。見知らぬ場所に足を踏み入れた時に感じる、土地から受け入れられていないという感覚が、彼女にのしかかっているのかもしれない。

「あらあらあら」

 根っこ広場の入り口で立ち尽くす少女の耳に、どこかのんびりとした声が届いた。少女が顔を上げ、声が聞こえてきた方向を見る。広場の奥からカラカラと音を立てて、ホウキを持ったキツネが小走りに、少女に近付いてきた。柔和な笑みを浮かべた大人の女性。カラカラと鳴っていたのは、そのキツネがはいているサンダルの音だったようだ。

「まあまあ。こんな朝早くに、こんなに可愛らしい女の子が来るなんて、今日はとても珍しい日ね」

 にこにこと見る者を安心させるような微笑みを浮かべて、キツネは少女の前まで来ると、膝を屈めて目線の高さを合わせた。

「おはよう、かわいいヤマネコさん。はじめまして。私はこの根っこ広場に住んでいるキツネよ。名前は、スーと言います。よろしくね」

 そう言って、スーと名乗ったキツネは少女の手を取る。そして驚いたように目を丸くした。

「まあ、なんて冷たい手。それによく見たらずいぶんと薄着だわ。寒かったでしょう? このままだと風邪をひいてしまうわ。さ、一緒にいらっしゃい。朝ごはんはまだ? 温かい紅茶とはちみつたっぷりのトーストを用意するわね」

 一方的にまくし立てるスーに、少女はどうしていいか分らないというような戸惑った表情をしている。スーは少女の様子にはお構いなしに、少女の身体をひょいっと抱え上げると、彼女を温めるように胸に抱いて、広場の奥へと歩き始めた。スーの柔らかい毛皮に包まれ、少女はその日初めて表情を緩めた。


「さあ、召し上がれ」

 木のテーブルの上には、白地に草木があしらわれた美しいティーカップと、それにおそろいの皿が置かれ、ティーカップには淹れたての紅茶が、皿の上にはバターとはちみつをたっぷりと塗ったトーストが二枚、用意されている。暖炉にくべられた薪がパチパチと音を立て、紅茶のよい香りが辺りにただよっていた。

 少女は自らをセラと名乗り、そしてそのまま口を閉ざした。両手を膝の上で握り、自らの膝をじっと見つめている。その姿はまるで、頑なに幸せになることを拒んでいるかのようだった。しかしスーは、そんなセラの様子にはまるで気が付かないとでもいうように、彼女の向かい側に座ってにこにこと笑っている。

「遠慮しなくていいのよ? これはあなたのために用意したのだから、食べてもらえなかったら寂しいわ」

 そう言うと、スーがわざとらしく困った顔を作った。右手を頬に当て、「あー、さみしい」と呟くスーの姿に、セラは真剣にうろたえている。それでもセラは、トーストにも紅茶にも、手を付けようとはしない。頑ななセラの態度に、スーは「ふーむ」と唸った。すると。

 ――くぅ

 セラのお腹が、可愛らしく声を上げた。セラの頬がさっと朱に染まる。スーは思わずといったふうに吹き出すと、笑いながらセラに言った。

「ほらほら、あなたのお腹も『食べたい』って言ってるわ。それにせっかくの温かい紅茶も、あつあつのトーストも、早く食べないと冷めてしまう。それはとっても、もったいないことでしょう? だから、ね?」

 このとおり、と顔の前で両手を合わせ、スーは拝むように頼み込む。セラは困ったようにスーを見つめると、やがて観念したのか、ゆっくりとトーストに手を伸ばし、そろそろとその端にかじりついた。口をもぐもぐと動かし、こくんと飲み込む。スーは安心したように軽く息を吐いて微笑んだ。しかし次の瞬間。

 セラの瞳から、大粒の涙がこぼれた。

「!」

 鋭く息を飲み、スーが椅子から立ち上がる。あふれる涙にしゃくりあげながら、セラは途切れ途切れに、言葉を口にした。

「わた、しは、たべちゃ、いけない、の。

 わた、しは、いたら、いけ、ないの」

 スーはセラの隣に座りなおすと、その肩を抱き寄せた。

「だいじょうぶ。だいじょうぶよ」

 そう繰り返しながら、スーは鼓動と同じリズムでぽんぽんとセラの背をたたいた。どれほどの間、そうしていたことだろう。やがて涙は勢いを失い、嗚咽の声も小さくなった。スーはゆっくりと、穏やかに、セラに言った。

「何があったか、話してくれる?」

 スーの言葉に頷き、そして、ぽつりぽつりと、セラは話し始めた。


 ちょうど一年前、セラは突然、叔父夫婦のもとで暮らすよう言われた。どうして、と問うセラに父は苦しげに首を振り、そしてこう約束した。

「必ず迎えに来る。だからそれまで、我慢しておくれ」

 あまりに辛そうな父の姿に何も言えず、セラは頷くしかなかった。幸い叔父夫婦は快くセラを引き受けてくれた。

 叔父夫婦にはふたりの子供がいた。ひとりはセラより年下の、泣き虫なやんちゃ坊主だった。名前はニノと言い、セラにとてもなついてくれた。弟ができたようで、セラはとてもうれしかったという。もうひとりはセラより年上で、優しく穏やかな、そしてとても絵の上手な男の子だった。名前はレノと言い、セラが元気のないときは楽しい絵をたくさん描いて励ましてくれていた。レノの絵の才能は本当に素晴らしいもので、すでに逆さ虹の森の中ではその名が知られていた。将来は都に出て、本格的な絵の勉強をすることが夢だという。叔父夫婦もレノの夢を応援していた。

 叔父とその家族はセラを本当の家族のように扱ってくれた。両親に会えないのは寂しかったけれど、必ず迎えに来ると言った父の言葉を信じ、懸命に寂しさに耐えた。叔父たち家族はセラが寂しくないように、悲しい思いをしないようにと、手を尽くしてくれていた。ただひとつ問題があるとすれば、叔父夫婦は決して裕福ではなかったということだった。小さな女の子がひとり増えただけで、生活が苦しくなってしまうほどに。

 みんなで食卓を囲むとき、叔父夫婦の前には何も置かれない日があった。ニノが「お腹が空いた」とぐずり、叔母が謝っている光景を目にしたことがあった。レノが中身のない絵の具のチューブをじっと見つめて、ため息を吐いている姿を見たことがあった。そんなことを目の当たりにして、いつしかセラの胸に、一つの疑問が浮かんでいた。

 私は、この優しい家族の幸せを奪っているのではないか――

 一度浮かんだ疑問は黒いシミとなって胸に残った。しかしセラには為す術はなく、どうすればよいのかも分からないまま、ただ苦しい思いだけが心に降り積もっていった。

 今朝、セラが目を覚ますと、すでに叔父夫婦とレノは台所にいて、何か話をしていた。セラは、今、出て行ってはいけないような気がして、足音を立てずにそっと近づくと、会話の内容に耳をそばだてた。

「年が明けたら、働き口を探そうと思う」

 レノは言った。叔父夫婦は驚き、目を見開いた。

「何を言うんだ。都に出て、絵の勉強をするんじゃなかったのか?」

 レノは首を横に振る。

「絵は趣味として続けるよ。僕に画家として成功するだけの才能はない。それよりも安定した収入のある仕事をして、地に足の着いた生活をするほうが大切なんだ」

 悔しさを押し殺すように、レノはその顔に笑みを作った。

「ニノもセラも、大切な僕の家族だ。ふたりが幸せになれるように、僕は僕にできることをしたいんだよ」

 レノの言葉に、叔父は奥歯を噛み締めて俯いた。叔母はそっとレノの頬に手を当て、「ごめんね」と繰り返しながら泣いた。そしてレノは、「これでいいんだ」と、自らに言い聞かせるように呟いていた。

 セラは震える身体を押さえるように、自らの肩を抱いた。


 やっぱり、そうだった。

 わたしがいるから、ニノはおなかをすかせているんだ。

 わたしがいるから、おじさんはうつむいているんだ。

 わたしがいるから、おばさんはないているんだ。

 わたしがいるから、レノはだいすきなえをあきらめなければならないんだ。

 わたしが、いるから――


 胸に巣食う疑問が確信に変わった時、セラは家を飛び出した。


「あなたは優しい子ね」

 セラを抱きしめながら、あやすようにスーは言った。張りつめたものが切れてしまったように、スーの胸の中で、セラは大声をあげて泣いた。誰にも打ち明けることができなかった、心の奥の苦しさを、不安を、すべて吐き出すように、泣いた。セラが泣いている間、スーはずっとセラの背を撫で、あなたは優しい子だと、そう言い続けた。


 スーに手を引かれ、セラは根っこ広場の大樹の前にいた。冬の気短な太陽は、すでにその日の役目を終えようとしている。夕暮れの朱金色が広場を染め、セラたちの影を長く地面に落としていた。

 スーの胸で泣いた後、セラは泣き疲れて少し眠った。目を覚ましたセラに、スーは紅茶と生クリームたっぷりのパンケーキをふるまい、セラはそれを平らげた。しかしそれは、パンケーキを食べなければスーが心配するということを知っていたからだろう。頭の良い子なのだ。だからこそ、周りにいるみなの気持ちを敏感に察し、心を痛めている。

「かえらなきゃ」

 そう言ってセラはスーの顔を見上げた。セラの頭には、蔓を編み花を摘んで作った髪飾りが揺れている。スーは穏やかな日差しが降り注ぐ午後の広場にセラを連れ出し、日が暮れるまでセラと遊んだ。スーが作った髪飾りをセラの髪にそっと差すと、セラは恥ずかしそうに微笑んだのだった。

「また、きてもいい?」

 おそるおそる、セラはスーの表情を伺う。スーは大げさなほどに大きく頷いた。

「もちろん。いつでもいらっしゃい。あなたなら大歓迎よ」

 セラはほっとしたように微笑む。自分が居ていい場所がどこなのか、不安は常に心でくすぶっているのだろう。帰ると言ったのも不安がなくなったからではなく、帰らないことの方が叔父たちに心配をかけてしまうということを、セラが知っているからに過ぎない。

 スーはしゃがみ込むと、セラの目の前に手を差し出し、ぎゅっと握ってみせる。セラが不思議そうに見つめる中、そっと手を開くと、まるで手品のように一匹の蛍が姿を現した。

「あかりぼたる!」

 セラが目を丸くして驚きの声を上げる。灯り蛍は別名『太陽虫』と呼ばれ、ランプよりもはるかに強い光を放つ蛍だ。夜を照らすその姿から神聖な虫とされ、迷えるものを正しき道に導くという言い伝えがある。

「この子について行きなさい。ちゃんとおうちに連れて行ってくれるわ」

「うん」

 灯り蛍はふわりとスーの手を離れ、ついてこい、というように空中に円を描いた。そしてセラの歩く速さでゆっくりと先導する。途中で何度も振り返り、手を振りながら、セラは灯り蛍に導かれて帰路に就いた。


「さて」

 スーはそう呟くと、大きく深呼吸をした。昼の内に、セラの叔父夫婦には伝言鳩を送って事情を説明している。心配はしているだろうが、ひどく叱られることはないだろう。

 太陽が姿を隠し、藍色のヴェールが森に降る。スーの紅い瞳が妖しい光を帯びた。大樹の根が抱える闇の奥から風が流れ、高いとも低いともつかぬ不思議な音を運んだ。スーは大樹を振り返り、なだめるように言った。

「分かっておりますわ。私はあなたの声なのですから」

 スーの手には、いつの間にか一枚の油絵がある。『家族の肖像』と題されたその絵にはヤマネコの家族が描かれ、家族の中心には一人の少女が幸せそうに微笑んでいる。そうあってほしいという祈りが、そうあらねばならぬという決意が、絵に刻まれている。

「美しい祈りに美しい結末を」

 歌うようにスーが呟く。それは『逆さ虹の森の主』の意志を示す言葉であり、主に仕える者にとっての絶対の掟でもあった。

 スーの言葉を受けて、夜から染み出すように一羽の白鳥が姿を現した。闇の中にあって白鳥の身体は虹色に輝き、自ら光を放っている。

「行け」

 スーは短く、虹白鳥にそう命じた。どこに、とも、なにをせよともスーは言わない。虹白鳥はうやうやしくスーから油絵を受け取ると、大きく羽ばたいて東の空へと飛び去った。東には、はるか遠く都がある。

 スーは目を閉じ、再び大きく息を吐く。凍えるような冬の空気が肌を刺し、闇は支配者の顔をして世界に君臨している。だが、明けない夜があってはならない。終わらぬ夜に苦しむ者があるのなら、太陽を地上へと引きずり出し、闇を払わねばならない。たとえ傲慢の罪を背負うとしても、それこそが『逆さ虹の森の主』が神に背いた理由なのだから。

「私は、あなたの笑った顔が見たい。あなたの幸せな姿が見たいわ、セラ」

 祈りに似たスーの呟きが、白い吐息と共に夜に溶ける。スーに同意するように、オークの木がさわさわと揺れた。


 冬の寒さがほんの少し和らいできた日の朝、スーは玄関先で大きく伸びをしていた。ポストから新聞を取り出し、さっと見出しに目を通す。興味を引かれたのか、見出しの一つに視線が止まった。

『逆さ虹の森初の快挙! ヤマネコの少年、王立芸術院の特待生に』

 スーの顔が嬉しそうにほころぶ。そして、スーが大切そうに新聞をたたんで家に入ろうとしたとき、

「スーっ!」

 聞き覚えのある声が、広場の入り口から聞こえてきた。

「あらあら」

 スーは振り返り、頬に手を当てて目を細める。その視線の先には、一直線にスーに向かって走ってくる、セラの姿があった。

「スーっ!」

 もう一度名を呼び、セラは走ってくる勢いそのままに、スーに飛びついた。

「まあまあ」

 セラの身体を抱きとめ、スーがセラの頭を撫でる。

「元気だった? セラ」

「うん!」

 セラは輝くような笑顔でスーを見上げた。そこに、かつて自らを「いてはいけない」と言っていた少女の姿はない。セラから伝わる温もりを感じながら、スーはぎゅっとセラの身体を抱きしめた。

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