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第二話

「ま、待ってよがっくん。ちょっと、早いって」


 猫の親子からぐんぐん遠ざかっていく岳を、栄太は必死に追いかけていた。激しく活動する肺に、共用庭から漂う緑のにおいが充満していく。


 ようやく立ち止まった背中に、彼は非難を浴びせた。


「待ってって、言ったのに。がっくんひどいよ」


「や、悪い悪い」


 まったく悪びれていない顔だった。


「とりあえず猫からも逃げおおせたことやし、改めて不良二人で探索、始めよか」


「あっ」


 にへらを笑った口元を見て、栄太は確信した。今までの猛ダッシュは自分を立ち入り禁止区域に引き込むための策略だったのだ。そうとも知らずにまんまと追走してしまった。


 なんだか腹が立ってきた。


 大体、岳はいつもいつも強引なのだ。こちらの都合を無視して己のやりたいことを押し通してくる。


 そのせいで何度悲惨な目に遭ってきたか。図工室でも無理やりほうきとぞうきんで野球を始めるし、女子の前でズボンを下げてくるし、給食になれば好物を横取りしてくるし、唐突に膝カックンしてくるしで、毎日もてあそばれてしまっている。


 ――今日こそは仕返ししてやるぞ。


 舐められてばかりではだめだ。きっぱりノーを突きつけ、毅然と家に帰ってしまおう。そうすれば対等の人間として見直してくれるに違いない。


 小さな野望を抱きながら、栄太は軍人のようにくるりと方向転換した。


 その体が凍りついた。


 団地の物陰から、草むらから、三十匹近い猫がこちらを凝視していたのだ。


 しかし襲ってくる気配はない。それどころか、一匹たりともこちらに近づこうとさえしない。


 まるで、これより先は危険だと言わんばかりに。


 夕焼けチャイムが生ぬるい風とともに流れてきた。哀愁の漂うメロディと無機質な女性のアナウンスが、漠然とした不安をかき立てる。


 もう引き返すべきだ。そう提案する前に、岳が呟いた。


「位置的にここら辺やとは思っとったけど、これは運命かもしれへんな」


 視線の先を栄太も追った。そして気づいた。


 目の前の団地が、51号棟だという事実に。


「人が近寄らへん廃墟の51号棟か。確定やな」


 合点がいったとばかりに早口になる。


「ここはアメリカのエリア51と日本を繋ぐ宇宙人の拠点なんや。昨日見た光はワープ装置が起動した瞬間やな。こいつは大発見やで!」


 まさかの一致に空想の華を咲かせる岳。逆に栄太は別の懸念に怯えていた。


 この建物は、くだんの幽霊団地ではないか、と。


 両脇に立つ団地の番号は『50』と『52』だから、数字の順番はなんらおかしくはない。だが、こんな偶然があるだろうか。


 昨日の謎の光とは、幽霊団地が人間をおびき寄せるためにしかけた罠だったのではないか。提灯ちょうちんを餌に見立てて魚を喰らうアンコウのように。猫たちは本能でそれを察知していたのだとしたら。


 夕焼けチャイムが静かに途絶えた。栄太は思い出す。幽霊団地の餌食になった女の子は、夕焼けチャイムのあとで神隠しに遭ったのだと。その光景が脳裏にまざまざと浮かび上がった。


 51号棟から伸びる巨影を避けるように、栄太は足を引っ込めた。


「がっくん、チャイムも鳴ったしもう帰ろう。暗くなっちゃうよ」


「アホか。ここまで来て帰ったら宇宙人マニアの名折れやろ」


「僕はマニアじゃないから行きたくないよぉ」


「あーはいはい。そないに嫌なら一人で帰ればええわ。俺は行くからな」


 言うが早いか、岳は階段を勇み足でのぼっていった。


「あっ、がっくん!」


 岳の姿が階段の陰に隠れて見えなくなった。すぐに手前の踊り場側に現れるも、またすぐに階段の陰へ消えてしまう。そのたびに肝が冷える。もし、ぱったりと足音が途切れてしまったら。踊り場に出てこなくなったら。考えただけで卒倒しそうだ。


 はらはらと見守るうち、無事に五階へ到着した岳が手招きした。


「ええ加減えいちゃんものぼってこいって。ドアノブ壊れとるから中に入り放題やで」


「な、なんで壊れてるの。おかしくない?」


「そら宇宙人がぶっ壊したからやろ。彼らの科学力を舐めたらあかんぞ」


「ドアノブを壊すのに科学力いらないでしょ。ねえ、もしかしたらホームレスの人が住んでるんじゃないかな。昨日の光は懐中電灯とか、そういうのだと思うんだけど」


 現実的な推論で説得にかかる。工事の延期を聞きつけた浮浪者ふろうしゃが、廃墟団地をいっときの寝床にしている。可能性としては充分だろう。


「だとしたらやっぱり危険だよ。殺されちゃうかも。身ぐるみはがされちゃうよ」


「身ぐるみって、羅生門やあるまいし。このご時世に子どもの中古服売ってもすずめの涙にしかならんわ」


「そうだけど、なにされるかわからないよ。暗くなってきたし、今日はここまでにしよう」


「…………」


「がっくんもお母さんに知られたらまずいでしょ。がっくんのお母さん、怒ると怖いんだから。それに――」


 継ごうとした二の句を、岳の叫びが引き裂いた。


「えいちゃん、逃げろ!」


 猫が一斉に身をひるがえした。


「あかん、そこにおったら危ない!」


 彼の視線は、向かいの56号棟に投げられている。


「真っ黒な化け物が来るぞ!」


「えっ――」


 ――ば、化け物!


 心臓が激しく跳ね出した。危険なのは51号棟だけではなかったのか。

 

「こっちや! はようこっちに来い!」


 後ろを振り向く。年季の入った建物が自分を威圧的に見下ろしている。


 ――ば、化け物……。


 目を凝らしてみる。耳を澄ませてみる。


 今、窓に黒い影が映らなかったか。階段から物音がしなかったか。


 今、笑い声が聞こえなかったか。


「ひぃっ!」


 息を呑むより早く、栄太は疾走していた。岳の待つ幽霊団地の方へ。


 死に物狂いで上を目指し、這う這うの体で五階に辿り着いた。


「こっちや、えいちゃん! 急げ!」


 踊り場同然の狭い廊下にある、二つの玄関ドア。その左側、501号室のドアを岳が押し開いていた。


 栄太は無我夢中で滑り込んだ。ドアが錆びまみれの音を立てて閉まる。むわっとしたサウナさながらの熱気と、身も凍えるようなほの暗い闇に出迎えられた。


「が、がっくん。さっきの化け物って、一体……」


 知りたいが、知りたくない。聞きたいが、耳を塞ぎたい。複雑な感情でいると、


「悪い。あれ嘘や」


「へっ?」


「ああでも言わんと、えいちゃん来ぉへんやろ。まんまと引っかかったな」


 けらけらと笑われた。


 ――よ、よかった。


 と腰を落とそうとして、


 ――よくない!


 半端な姿勢になった。


 そう、ここは51号棟。しかも部屋にまで上がりこんでしまった。


「がっくん!」


「まあまあ。旅は道連れ世は情けや」


 あっけらかんと言ってのけられた。もう非難しても無駄だと観念する。こうなってしまったら、あとはこの建物が幽霊団地ではなく、ただの廃墟だと祈るしかない。


「ほな、おじゃましますっと」


 岳はためらいなく廊下に立った。栄太はここで待ってようかと悩むも、ついてこいと目で指示された。仕方なく遠慮がちに入室する。


「さて、どっから探索しよか。見た感じは俺らの団地とまあ一緒やな」


「でもなんか、凄くにおうね」


 室内はほこりと、生ごみの混じったようなにおいがする。蒸し熱くよどんだ空気が肌にべっとりとまといつき、水分がみるみる吸い取られる。顔は自然としかめっ面になっていた。


 501号室は、玄関の右側に洗面所と風呂場がある。左側は廊下を少し進んだ先にキッチンが配備されている。間取りが自分たちの団地と同一なら、キッチンのそばには六畳の和室が広がっているはずだ。


 そして玄関の正面には、ふすまで閉ざされた十畳の和室があるのだが、そこから物音がした。コーラ缶を飲み干してからげっぷをしたような、耳障りな響きだった。


「えいちゃん、聞いたか」


 頷いて答える。あごから汗が滴った。


「えいちゃんが騒いだせいで、ばれてしもた」


――なんで僕のせいなの!


 と反論したかったが、声が出ない。何者かが今、襖一枚を隔てた向こう側にいるのだ。宇宙人か、幽霊か、はたまたホームレスか。なんにせよ、一刻も早くここから立ち去るべきだ。


 しかし、岳は襖の前に立った。


 それだけにとどまらず、


「おー、みすたーえいりあん。はうあゆー? あいむふぁいんせんきゅー。おーいえす」


 謎の言語で会話を試みた。


 いさめようにも喉が引きつる。体も凍りついて動かない。栄太は岳が襖の取っ手に指をかけるのを、スローモーションのような感覚で見つめるほかなかった。


「あいうぉんとぅおーぷん。おーけい? せんきゅー。……とりゃっ」


 勢いよく襖を開いた。


 視界に広がったのは、畳が敷き詰められただけの、がらんどうの空間。


 そこに、ひょうたんに似た物体が薄闇を着飾りながら寝そべっていた。


 はじめは宇宙人に見えた。はち切れそうなほど太ましく赤黒い肌は、およそ人間とは思えない。だが、宇宙人にしては個々の部位があまりに自分たちと似ている。


 次に幽霊ではないかと戦慄せんりつした。出目金でめきんじみて飛び出た両目には生気が宿っていない。しかし、幽霊にしてはやけに生々しい存在感だ。


 やはりホームレスではないかと疑った。人間であることは間違いなさそうだ。けれど、着ている服が明らかに少女のものだった。

 

 全身がぱんぱんに膨らんだ『それ』を、栄太は初めて目にした。にもかかわらず、網膜に焼きついた『それ』の正体を本能で感じ取った。


 和室に倒れていたのは、女の子の腐乱死体だった。


「ひゃああっ!」


 彼が腰を抜かしたと同時に、ハエが一気に飛びかった。


 ぴしゃりと岳が襖を閉める。かいくぐってきた数匹を手で追い払った。


「出るで、えいちゃん!」


 岳が素早くドアを開け、へたり込む栄太を羽交はがめにした。そのまま外の踊り場まで引きずる。


 二人はしばらく、闇に沈みかかった踊り場で静寂に身を浸した。


 先に口をきいたのは栄太だった。


「な、な、なんであんなところに、した、死体が……」


 下あごが上手くかみ合わず、普段通りに喋れない。


「えいちゃん、さっき言うとったよな。女の子の誘拐事件が起きとるて」


 無理に落ちつこうとしているかのようなペースで、岳が話し出す。


「多分それやな」


「えっ」


「一ヶ月前に誘拐された子は、白いワンピース着てたんやろ。あの死体の服も、汚かったけどそれっぽかったやん」


 栄太は応じられない。細部まで気がつく余裕がなかった。


「子どもを誘拐したあげく殺した犯人は、この廃墟団地が死体の放棄場所に打ってつけと思ったんやろな。もしくは廃墟団地の存在を知ってから誘拐殺人を計画したのか。その点はどっちでもええけど、昨日見た光は宇宙人やのうて誘拐殺人犯のライトやったってことか。残念や」


 岳は重い息を漏らすと、階段を下り始めた。


「なんしか、警察に連絡やな。あの子を放置したままにはできへん」


「ま、待って、置いてかないで!」


 栄太もなんとか腰を上げ、壁に手をつきながら暗い階段を下りていく。


 その時。


 ずっ、ずっ、ずっ、ずっ……


 遠くから、なにかがこすれる音がする。


 ずっ、ずっ、ずっ、ずっ……


 だんだん近づいてくる。


 ずっ、ずっ……ず。


 止まった。ちょうど、51号棟の前で。


 二人は顔を見合わせる。


 どちらからともなく、踊り場から身を乗り出した。


 真下に、真っ黒な人影が立っていた。真っ黒な袋を引きずって。


 人影の頭がもぞりと動いた。


 目が合った。


「…………」


「…………」


「…………」


 時の流れが停止した。三人とも、彫刻めいて微動だにしない。


「…………」


「…………」


「…………」


 セミとコオロギの鳴き声だけが、停滞した空気を騒がせる。


「…………」


「…………」


「あー、見ちゃった?」


 人影が話しかけてきた。若くはない男の声だった。


 栄太は岳に視線を転じようとして、思わず目を見開いた。


 いきなり人影がこちらに走ってきたのだ。すぐさま、ダンッダンッダンッダンッダンッ――と数段飛ばしで迫る音が真下から湧いてくる。


「くそっ、タイミング最悪やな!」


「ど、ど、どうしよう!」


「こっちや!」


 彼が逃亡先に選んだのは、たった今出てきたばかりの501号室だった。


「がっくん、そこは……」


「えり好みしとる場合か!」


 服を掴まれた栄太は、腐乱死体の待ち受ける室内に逆戻りした。逢魔おうまときにさしかかったことで、満足に視界がきかない。


「鍵は壊れとるんやったな!」


 施錠しようとした手を岳は引っこめた。


 その間、栄太は室内をおろおろと見回していた。


 家具もない以上、身を隠せる場所は少ない。あるとすれば風呂か押し入れだが――


「しゃあないか」


 岳はその両方を捨て、襖に手をかけた。


「え、ちょっと!」


「目ぇつむっとけ!」


 次の瞬間、豪快に襖が開け放たれた。


「こっちや!」


 栄太は手を引かれつつ、死者のうずくまる禁域に侵入した。


 言われた通りにぎゅっと目をつむる。だが呼吸を止めなかったばかりに、熱気をともなう強烈なにおいで鼻の奥がつんとした。糞尿と生ごみを混ぜたものに、酢をあえてから焼いたような独特の刺激臭だ。おまけに全身にはハエが何匹もぶつかる。


「あっ」


 つま先がぶよぶよしたものを蹴った。途端に怖気おぞけが足指から太ももを走り、背筋を通って脳天に達した。鳥肌が体中で産声を上げる。


「開け! こなくそ!」


 窓の振動を耳が捉える。どうやら錆びた鍵を回そうと悪戦苦闘しているようだ。


「いよっしゃ!」


 ぶわっと熱風が吹き、ハトの鳴き声と羽音がまばらに響いた。


「もう目ぇ開けてええで」


 指示に従うと、岳はバルコニーに外付けされた排水管を触っていた。


「これ伝って下まで逃げようと考えとったんやけど、あかんな。ガタガタや」


 見れば、接続部分が老朽化のせいでずれていた。これではしがみついたと同時に外れかねない。


「502から行くか」


 そう取って返し、反対側の蹴破り戸まで走る。敷き詰められていたハトの糞が飛び散った。


「えいちゃん、ここよじ登れ。でもってあっち側に行くんや」


 赤錆の浮いた手すりを叩く。


 栄太は首を振った。


「でも、落ちちゃったら」


 高さ十メートルを超える五階からの落下。庭にいくら草が群がっていようと死は避けられない。


「んなこと言うとる場合か! もたもたしとったらどの道殺されるのがオチ――」


 ガゴン、と玄関ドアが不気味にうなった。


「えいちゃん!」


「うぅ……」


 覚悟を決め、ウエストポーチを背中側に回した。それから鉄棒と同じやり方で手すりに腕を立てる。


 ――下は見ない。下は見ない。


 なるべく目線を並行に保ちつつ、片足を手すりに引っかける。その足にうんと力を入れて体を持ち上げた。


 上半身が前のめりにならないよう背筋を伸ばす。片手を蹴破り戸のてっぺんに置いて支点にしつつ、なんとか手すりの上に立った。


「よし、そのまま行け」


 栄太は慎重に足元の感覚を確かめ、カニ歩きで蹴破り戸を越える。


 そして滑り落ちるように502のバルコニーに着地した。


 ――や、やった!


 すかさず岳も手すりに乗る。


 だが、室内から乱暴な足音が肉薄し、


「捕まえた」


 岳がこちらに飛び移った瞬間、彼の首に鷲爪わしづめのごとき手指が絡みついた。


「ぐぅぅ……がぁ」


 首が握りつぶされる。懸命に引きはがそうとするも、いわおのような太い指は深く埋まっていく。


 蹴破り戸が小刻みに身震いを始めた。男が思い切り蹴飛ばしているのだ。周囲に人がいないのをいいことに、暴力的な音を放ち続ける。


 とうとう落雷のごとき破砕音が起きた。破れた壁穴から、すね毛まみれのふくらはぎが顔を出す。栄太の瞳に涙がにじむ。


 ところが、男が急に足を引っ込めた。壊れた蹴破り戸の断面が刺さったようだ。


 男は舌打ちするなり、岳を掴んでいない方の手で蹴破り戸のてっぺんを握った。それから栄太たちと同様に、手すりを足場にして立ち上がった。


 そして片腕の力だけで岳を持ち上げていく。


「ぐぅっ……!」


 力を振り絞って岳が抵抗する。しかしまるで適わない。力の差は歴然だ。


 肩から上が手すりを越えた。


 落ちる。


 ――がっくん!


 栄太が手を伸ばそうとした、その時だった。



 ごえええええぇぇぇぇ……



 突如、獣のごとき咆哮が轟いた。地獄の底から噴出したかのような振動に、一瞬にして栄太と岳がすくみ上がる。


 ただ一人、男だけが動揺をあらわにしていた。


「なんで、どうして……」


 和室の方を見て愕然がくぜんとしている。


「く、来るな……」


 隙に乗じて岳が再び暴れ出した。


 男が体勢を崩す。


 徐々に徐々に、後ろに後ろに、身を傾けていく。


 岳も一緒に引っ張られていく。


「がっくん!」


 栄太は彼の腰に抱きついた。


 男の手指が開いた。


 直後、断末魔の叫びが宵闇へと落ちていった。


 肉を叩く鈍い音と、骨の折れるこもった音が、濃紺の空に混じり合った。




「いやー、今日は散々な一日やったなー」


 電灯の灯らない公園を歩きながら、岳は明るく口にした。


 あのあと二人は、慎重に蹴破り戸を壊して501号室に戻り、廃墟団地区域を脱出した。


 途中、息を止めつつ少女の腐乱死体に手を合わせた。姿かたちは闇に埋もれて判別しづらかったが、心なしか輪郭が小さくなったように感じられた。


 岳曰く、あの獣じみた咆哮は、死体に溜まった腐敗ガスが放出された音だという。確かに発見時は異様に膨らんでいたのに対し、手を合わせた時は縮んで見えた。筋は通っている。


 だが本当にそれだけだったのか、という考えがどうしても頭をよぎる。男の最期の言葉を振り返ると、なおさらだった。


 51号棟の前に置き去りにされた黒い袋は、岳が中身を検めた。無言で首を振ったのがすべてを物語っていた。こうして二人目の被害者の所在も、最悪の形で発覚したのだった。


「えいちゃん、さっきはおおきに。あやうくあいつの道連れにされるとこやったわ」


「ううん、そもそも僕がもたついてたからだし」


「謙遜せんでええ。えいちゃんは俺の命の恩人や!」


 と、岳は普段通りのテンションで肩を組んでくる。


 ――強いなぁ、がっくんは。


 まだ膝が震える自分とは大違いだ。栄太は彼に身を寄せて問い尋ねた。


「ねえ、これからどうすればいいのかな。まずは警察に連絡だよね」


 あそこには誘拐された少女たちの死体がある。彼女たちの帰りを断腸の思いで待っているであろう人たちに、この件を伝えなければならない。


 けれども、返ってきたのは意外な答えだった。


「別に、ええんちゃう。あのままでも」


「えっ」


「女の子が生きとるならまだしも、もう死んどるやん。あの男も即死やろうし、今すぐ警察呼ぶ必要もないやろ」


「でも早く知らせてあげなきゃ、家族の人がかわいそうだよ」


「そうやけど」


 珍しく歯切れが悪い。栄太は暗がりになった彼の表情を確かめてみた。


 ―――あっ。


 いつも自身に満ち溢れているはずの顔つきが、くしゃくしゃに歪んでいた。


「なあ、えいちゃん」


 その声はか細かった。


「あいつが落っこちたの、俺のせいなんやろか」


「え、それは……」


「もちろん殺す気なんてなかった。せやけど、俺が振りほどいたせいで、ああなったわけやないか。そやったら俺、あいつと同じ殺人犯になるやん。警察に全部話したら、施設送りかもしれん。そんなん、嫌や」


「…………」


 栄太はくちびるを噛んだ。いくら勝ち気で聡明な岳でも、人を殺めたかもしれないという罪悪感に平然としていられるはずがない。彼もまた、自分と同じ小学三年生なのだから。


 肩に回された腕をほどいた栄太は、その手を握った。


「大丈夫だよ」


 柔らかい口調で諭す。


「がっくんは殺人犯なんかじゃないよ。僕、見てたから。がっくんが暴れた時には、あの人はもう落ちる寸前だった。警察にもそう言うつもり。だから、心配しないで」


 見つめ返してきた岳は、目元をぬぐうと笑顔で応えた。


「おおきに、えいちゃん」


「うん」


 栄太はこの時初めて、岳という友人を身近に感じられた気がした。

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